Lotus78 History & Markings – Vol.23 1977 Rd.16 Canadian GP


今回は前週のUSGPイーストから連続開催となった1977年第16戦カナダGP(10月9日決勝)でのロータス78について取り上げます。F1サーカスはワトキンス・グレンからそのまま陸路開催地であるカナダのオンタリオ州トロント近郊にあるモスポート・パークへ移動しましたが、このモスポートは特に安全面で関係者の評判が悪く、特にこの1977年は様々な問題が噴出します。コース自体は前戦のワトキンス・グレンやオーストリアのオステルライヒリンクに比較的類似したアップダウンの激しい高速コースでしたが、路面の舗装が悪くバンピーで、かつガードレールが十分に整備されておらず、マーシャルの数も予定されていた211名の半分にも満たない95名しかおらず、更に負傷者を搬送する為のヘリコプターも無い状態でした。そしてその懸念は現実のものとなり、金曜日のプラクティスでヘスケスのイアン・アシュレイがコースのバンプを乗り越えた際にコントロールを失い、ガードレールを飛び越えてその先のTV塔に激突するアクシデントが発生、アシュレイは一命を取り留めたものの脚と手首の骨を折る重傷を負い、1985年にアメリカのCARTに参戦するまでの長期間トップカテゴリーから遠ざかる事になりました。しかもこの時アシュレイをマシンから救出するのに40分もの時間を要し、更に病院へ搬送する為のヘリコプターがサーキットに到着するまで更に30分もの時間を要してしまいます。これを受けてドライバー達は出走拒否を示唆、結局急遽ガードレールの整備とヘリコプターが常駐する事になり、ようやく事態は収拾を見ました。しかしこの事もあってかカナダGPは翌1978年から、現在に至るまでカナダGPの開催地となっているケベック州モントリオールにあるノートルダム島に設けられたコース(1982年のジル・ヴィルヌーヴ死後、彼の名前が命名される)に移動する事になります。

写真:1977年カナダGP決勝(LAP2/80)、ポールポジションからスタートし、ジェームス・ハントのマクラーレンM26をリードするマリオ・アンドレッティのJPS17。前戦ワトキンス・グレンに引き続き展開された2人のバトルは、他の全車を周回遅れにしてしまう程の激しさを見せたが、思いもよらぬアクシデントによりハントは脱落、そしてアンドレッティも勝利を目前に脱落を強いられ、2人ともチェッカーを受ける事なくレースを終える事になる。(Motors TV


【FILE 64. 1977 Rd.16 CANADIAN GP – October.7-9.1977】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti

参考資料:
・AutoSport 1977年12月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
今回も最初に紹介するのはマリオ・アンドレッティのレースカーJPS17。前戦USGPイーストからの連戦という事もあり殆どモディファイは見られませんが、唯一リアウィングのフラップが、前戦のガーニーフラップ状の物から、JPS18と同様にJohn Player Specialの上部1/5程度の面積を持った、やや大きな物に変更されています。また、このレースでもアンドレッティはコスワースのスペシャルDFVを使用しました。
アンドレッティはカナダでは再び速さを見せ、金曜日のプラクティスからマクラーレンのジェームス・ハントを1秒以上引き離してトップに立ち、最終的にもハントに対してコンマ5秒以上の差を付けてポールポジションを獲得しました。レースでもスタートでトップをキープしてハントを引き離そうとしますが、ハントは必死に食い下がってアンドレッティのテールから離れず、両者は後続グループとは段違いの速さでバトルを展開していきます。そしてレースも終盤を迎えつつあった60周目、2人は3位を走っていたハントのチームメイトであるヨッヘン・マスのテールに迫り、全車を周回遅れにしようとします。しかしマスはセカンドドライバーの当然の務めとしてアンドレッティをブロック、これが功を奏して61周目のヘアピンコーナーでコースオフしかけたアンドレッティをハントがパス、トップに浮上します。しかしハントのリードは束の間で、翌62周目のターン3でマスはハントに進路を譲ろうとした際、同じ方向に進路を変えていたハントと接触、ハントはキャッチフェンスにクラッシュしてリタイア、マスもスピンという最悪の結果となります(マシンを降りた後もコースに留まり、マスに対して抗議の拳を振っていたハントは、コースから退去する様に指示したマーシャルを殴って2,750ドルの罰金を科される)。これによってリードを奪回したアンドレッティは独走状態となり、エンジン回転数を9,500回転にセーブ、そして縁石も踏まない様にして安全にマシンをチェッカーまで運ぶだけとなりました。しかしレースも残り3周となった77周目にコスワースのスペシャルDFVはまたもブロー、今季5度目のエンジンブローでのリタイア(記録上9位完走扱い)となりました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は半月形タイプ
・右側キルスイッチのデザイン変更
・リアウィングに追加フラップ装備
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/03) 新規作成


【FILE 65. 1977 Rd.16 CANADIAN GP – October.7-9.1977】 v1.0
JPS18(78/4) Driver: Gunnar Nilsson

参考資料:
・AutoSport 1977年12月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
前戦に引き続きグンナー・ニルソンのレースカーとなったJPS18。前戦ワトキンス・グレンから外見上の変更点は殆ど無く、リアウィングの追加フラップも同じ仕様となっています。
前戦ワトキンス・グレンでクラッシュしたJPS18は連戦という事もあり時間が取れず、修復こそ成ったもののトーインやキャンバーといったサスペンションのイニシャルセッティングも出来ていない状態でモスポートに到着します。しかしニルソンはモスポートではアンドレッティ同様に好調で、タイムはアンドレッティから1.6秒遅れたものの、フロントローを占めたアンドレッティとハント、そして前戦でニアミスからひと悶着を起こしたティレルのロニー・ピーターソンに次ぐ4位のグリッドを獲得しました。しかしレースでは不運に見舞われ、スタートでこそピーターソンをパスして3位に順位を上げたものの、間もなくマスとティレルのパトリック・デパイエにパスされて5位に後退します。そして18周目にニルソンのJPS18はスロットルケーブルがスタック、マシンのフロントからクラッシュしてリタイアとなり、イギリスGPでの3位表彰台以来完全に運に見放されたニルソンは、これで6戦連続のリタイアとなりました。
カナダGPの後、アンドレッティとニルソンは再びアメリカへ戻り、10月15・16日にカリフォルニア州リバーサイド・レースウェイで行われたIROC(Internationl Race of Champions)第2・3戦に、ジャッキー・イクスと共にF1代表として参戦しました(第1戦は9月17日にミシガン・スピードウェイで開催)。アル・アンサー、リチャード・ぺティ、ジョニー・ラザフォード等のNASCAR、IMSA、USAC(後のインディーカーシリーズ)を代表するアメリカン・レーシングの強者達とシボレー・カマロのワンメイクで戦うこのシリーズでアンドレッティは7位-4位-2位、ニルソンは5位-6位-6位という結果を残し、翌週の日本GPへと向かいました。またニルソンは翌1978年シャドウから分裂したアロウズのエースドライバーに就く事が明らかになりましたが、同時にこの頃から彼の身体を蝕んでいた癌が次第に症状を現し始めていました。しかしそれがやがて自身の生命を奪うまでに至るとは、この時ニルソン自身は想像していませんでした。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチのデザイン変更
・リアウィングに追加フラップ装備
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/03) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

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