Lotus78 History & Markings – Vol.24 1977 Rd.17 Japanese GP


この連載も開始から数えて24回目、今回はいよいよ1977年最終戦の日本GP(10月23日決勝)でのロータス78について取り上げます。前年の1976年に富士スピードウェイで初開催となった日本でのF1ですが、この時は同年の全日本F2000選手権が「日本GP」として開催された為、スポーツニッポン新聞社が主催する「F1世界選手権イン・ジャパン」という名称で開催されました。1977年は当初4月15日に第5戦として開催される予定でしたが、スポーツニッポン側が赤字を理由に撤退、一時は中止の報道も大々的に流れましたが、JAFが運営を引き継いだ上でFIAに日程延期を申し入れて了承され、10月23日決勝で名称も「F1日本GP」として開催される事になりました。しかし混乱はこれに留まらず、レースでは6周目の1コーナーでフェラーリのジル・ヴィルヌーヴがティレルのロニー・ピーターソンに追突するアクシデントが発生、宙を舞ったヴィルヌーヴのマシンが立入禁止区域に居た観客を巻き込み、死者2名、重軽傷7名の惨事が発生、この年をもってJAFはFIAにしてF1GPの開催権を返上、次の日本でのF1GP開催は10年後の1987年の鈴鹿まで待つ事になったのは、ファンには既にご存知の通りの事です。

写真:1977年日本GP決勝(LAP63/73)、ギアボックスのトラブルによりピットでリタイアし、インペリアル・カラーに彩られた78/4から降りるグンナー・ニルソン。この瞬間がニルソンのレーシング・ドライバーとしての最後の姿となった。その後ニルソンはこの時既に発症していた癌との闘病も空しく、1年後の1978年10月20日に他界する。享年29。GPデビュー2年目にして初優勝を挙げ、今後の更なる活躍が期待されていただけに、余りにも早く、そして惜しまれる死であった。(Motors TV


【FILE 66. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.21-23.1977】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti

参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初に紹介するのはマリオ・アンドレッティのレースカーJPS17。前々戦USGPイースト、前戦カナダGPに続くフライアウェイとなり、マシンはカナダからイギリスへ戻る事無く日本に持ち込まれました。しかしチーム側は引き続きマシンのモディファイを続け、この日本GPではサイドプレートが後方に延長されています。またこの延長部分の側面形状は、サイドスカート後端のアップスイープ部分とは不連続になっているのが特徴で、これに伴いSuck-Downタイプのサイドスカートも後方に延長されています。恐らくサイドプレートとリアタイヤの隙間を狭めて空気の流入を防ぎ、より効率良くダウンフォースを得ようとする狙いが有った物と思われますが、写真を見る限りその延長部分がリアタイヤと干渉しそうな程になっています。この他カナダで装着されていたリアウィングのフラップはストレートの長い富士では撤去されています。マーキング面ではインダクションボックス右側フロント寄りに車検合格証ステッカー(赤い円状)が貼付されています。また、このレースでアンドレッティはオランダGP以来久し振りにニコルソン-マクラーレン・チューンのDFVを使用しています。
前年の富士の覇者であるアンドレッティは引き続き金曜日から好調で、医師の到着が遅れた為にこの日唯一のセッションとなったプラクティスでマクラーレンのジェームス・ハントを僅差で抑えてトップに立ちます。気温が上昇した土曜日には固めのタイヤで走行してハント共々タイムを更新する事は出来ませんでしたが、それでも金曜のタイムは破られる事無くアンドレッティは今シーズン実に7回目、富士では2年連続となるポールポジションを獲得しました。しかし日曜の決勝ではスタートに完全に失敗して後方集団に飲み込まれ、1周目終了時点で8位まで順位を落としてしまいます。レースはまだスタートしたばかり、しかも自身が最速であるにも拘わらずリカバリーを焦ったアンドレッティは2周目の100Rで7位を走るリジェのジャック・ラフィーに対してアウトから無理にオーバーテイクを仕掛けた結果、JPS17の右フロントホイールはリジェのリアホイールと接触、コースオフしてコース左側のガードレールにクラッシュしてしまいます。しかもその時に左リアのホイールが外れてコースに戻ってしまい、純日本製オリジナルシャシーのコジマで参戦していた高原尚武と、サーティースのハンス・ビンダーを巻き込んでリタイアに追い込んでしまいました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は半月形タイプ
・右側キルスイッチ現示位置のデザイン変更
・サイドプレートとサイドスカートを後方に延長
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
・ニコルソン-マクラーレンのロゴは両バンク前下方のカムカバーに記入


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成


【FILE 67. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.22.1977】 v1.0
78/4 Driver: Gunnar Nilsson

参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
1977年日本GPのグンナー・ニルソンのマシンと言えば、この美しく印象的なインペリアル・カラーです。エントラント名は「John Player Team Lotus」ではなく「Imperial International」とし、マシン名も「JPS18」ではなく「Imperial International Lotus 78/4」と命名されました。このイラストは土曜日時点と想像される状態です。マシンはモスポートでのクラッシュの後、カナダで修復作業を行った後、日本に持ち込まれました。塗装作業は金曜日の夜に行われたとされ(JPSカラーで走行したと思われる金曜日の姿は写真が無い為に不明)、富士スピードウェイ正門前にある「バッファロー・ガレージ」にて徹夜の突貫作業で塗装され、土曜の朝にはインペリアル・レッドにカラーリングされた状態で再びパドックへ現れました。雑誌「グランプリ・モデリスタ」Vol.1(モデル・カーズ2001年5月号増刊)に、この時に作業を行ったバッファロー・ガレージ代表の佐藤義人氏の貴重なインタビューが掲載されていますので、興味のある方は是非入手してみては如何でしょう。尚、同誌の由良拓也氏のインタビューにて、インペリアルのマーキングは地元の看板屋が描いたのではないかと語っていますが、しかし朝一番にロゴ無しの状態(写真確認済)でやって来たマシンを、朝の走行開始までの短時間で複雑なインペリアルのロゴと文字を全て手描きで完成させたとは考えにくく、インペリアルのロゴは他のスポンサーロゴと同じくステッカーで貼付されたと考えるのが妥当と思います。そのスポンサーロゴですが、JPS仕様とは貼付位置がそれぞれ微妙に異なっており、リアウィングのGOODYEARロゴと両サイドのカーナンバー6はやや上方、インダクションボックスのKONIロゴとモノコックのNGKロゴはやや前寄り、そして左側のValvolineロゴはかなり前方に貼付されています。キルスイッチ現示位置のマークはありません。この他車検合格証ステッカーはJPS17と異なりロールバー頂部に近い右側(インダクションボックスの吸気口付近)に貼付されています。また興味深いのは、同誌にはサイドスカートが通常のSuck-Downタイプではなく、ダミーと思われるゴム製の黒い物が装着された写真も掲載されています。

<外観上の特徴>
・インペリアルカラー
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・リアウィングの追加フラップ撤去


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成


【FILE 68. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.23.1977】 v1.0
78/4 Driver: Gunnar Nilsson

参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらが78/4の決勝時と思われる姿。前日の状態からJPS17同様にサイドスカートが後方に延長されており、これに伴いSuck-Downタイプのスカートも後方に延長されています。ただJPS17とは違って延長部分はサイドプレートのアップスイープに沿って伸びており、リアタイヤとのクリアランスもこちらの方が幾分か確保されており、見た目には非常に自然な感じになっています。しかし興味深いのはその延長部分の塗装で、サイドプレート本体とは異なりモノコック部分同様の明るい赤に塗装されています。何故、どの様な経緯でこの部分の塗装が違っているのか、非常に興味深い部分です。
ニルソンは土曜には油圧低下のトラブルに見舞われて順位を上げる事が出来ず、予選は14位と不本意な結果に終わりました。しかしレースはスタートで順位を上げて1周目終了時で12位、その後前述のアンドレッティ、ピーターソン、ヴィルヌーヴのアクシデントもあって14周目には6位まで順位を上げ、更に5位を走るリジェのジャック・ラフィーをパスして5位に上昇します。しかしニルソンの78/4はギアボックスが不調になり、次第にギアが入らなくなります。それでも6戦連続リタイアの続いているニルソンは何とかマシンをフィニッシュさせようと必死に走り続けました。しかしやがてシフトレバーも壊れ、リンケージを直接手で操作してまで走り続けたニルソンでしたがついに万策尽き果て、63周終了時をもってニルソンはマシンをピットまで運び、静かにマシンを降りました。2年間を過ごしたチームでの最後のレースを完走出来ずに7戦連続のリタイアとなってしまったニルソンは、とても残念がっていました。
自らの身体が精巣癌に冒されている事を告げられていたニルソンは、この後すぐにレーシング・ドライバーから一転、一人の人間として病魔との闘いの日々に身を投じます。そして悪化してゆく病状にもかかわらず、ニルソンは癌撲滅の為の基金「Gunnar Nilsson Cancer Foundation」を設立して癌撲滅キャンペーンを展開する一方、痛み止めの投与を拒否して癌と真っ向から戦い続けました。1978年7月16日にブランズ・ハッチで行われたイギリスGPには、頭髪が全て抜け落ちながらもパドックやピットで仲間との再会を喜ぶニルソンの姿がありました。そしてイタリアGPの事故で9月11日に他界した同郷の先輩ロニー・ピーターソンの葬儀では、自らの死期が近い事を悟りながらもピーターソンの棺に寄り沿うニルソンの姿がありました。そしてその一カ月後の1978年10月20日、ニルソンはロンドンのチャリング・クロス病院で静かに息を引き取りました。享年29。F1参戦32戦(出走31戦)、優勝・最速ラップ各1回、表彰台4回、通算獲得ポイント31。23歳から本格的にレースを始めたという遅咲きのスウェーデン人のF1キャリアは余りに短いものでしたが、その謙虚な人柄とは対照的なアグレッシブな走りは、確かな輝きを放ち、そして走り去って行きました。
しかしその後もニルソンの癌撲滅キャンペーンは終わる事無く、1979年6月3日にはドニントン・パーク・サーキットで「Gunnar Nilsson Memorial Trophy」の名でチャリティ・タイムトライアルが開催され、ウィリアムズからアラン・ジョーンズ、ウルフからジェームス・ハント、ロータスからマリオ・アンドレッティ、ブラバムからネルソン・ピケ、そしてアロウズからルパート・キーガン(リザルト順)が参戦しました(余り知られていない事ですが、この時ピケがブラバムBT46B「ファン・カー」をドライブしています。そしてハントはこの日を最後にレーシング・ドライバーを引退する事になりました)。また元ビートルズのジョージ・ハリスンは自らの曲の売上を寄付、イベントにも参加する等、ニルソンの遺志は彼を知る人々の手で受け継がれる事になりました。
「Gunnar Nilsson Cancer Foundation」は現在も活動を続けており、毎年スウェーデンの癌研究機関に収益金を寄付し続けています。


<外観上の特徴>
・インペリアルカラー
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・サイドプレートとサイドスカートを後方に延長
・リアウィングの追加フラップ撤去


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

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