Lotus78 History & Markings – Vol.31 1978 Rd.6 Belgian GP


今回は遂にチーム・ロータスにおけるロータス78の実質的なファイナルレースとなった1978年第6戦ベルギーGP(5月21日決勝)でのロータス78について紹介します。開催地であるゾルダー・サーキットはベルギー東部、オランダ国境に近い森林地帯に設けられたサーキットで、1975年にそれまでのスパ-フランコルシャン(当時1周14.12km)からベルギーGP開催を引き継ぎ、1982年にフェラーリのジル・ヴィルヌーヴが予選中のアクシデントで事故死した場所として人々に記憶される事になった後、1984年までF1が開催されていました。翌1985年にベルギーGPはコースがほぼ現在の状態に近いレイアウトに短縮されたスパへと戻り、現在に至っていますが、ゾルダーは第一コーナーのレイアウト変更やシケイン増設などの一部改修を受けながらも比較的当時のレイアウトを残したまま、現在はFIA-GT等のレースが開催されています。
5月7日に行われたモナコGPの後、チームはスウェーデンGPの開催地であるアンダーストープへと飛び、ロニー・ピーターソンがヒューランド製ギアボックスを搭載したロータス79(JPS20)の本格的なテストを行い、他車より2秒速いラップを記録します。エースのマリオ・アンドレッティはインディ500のプラクティスに参加する為にこのテストは不参加となりましたが、連日の雨に見舞われて走行が出来なかったアンドレッティは毎日インディアナポリスから電話を掛け、チーフエンジニアのナイジェル・ベネット等にテストの経過を聞いていました。当初ボスのコーリン・チャップマンは、テストで判明した問題(モナコからリアサスペンションのクロスメンバーが変更されている事から、この部分と思われる)や信頼性への不安からベルギーでのJPS20の投入は見送る意向でおり、JPS20はアンダーストープからそのままゾルダーへと送られ、チームはアンドレッティのレースカーとして従来通りJPS17を準備していました。しかしゾルダーに来てピーターソンからインプレッションを聞いたアンドレッティはJPS20での出走を強く主張、チャップマンやチーフメカニックのボブ・ダンス等を押し切り、急遽クロスメンバーの改修等を行ってJPS20の実戦投入を強行します。この為PS17はアンドレッティのスペアカーとなり、一方のピーターソンは従来通りJPS16でレースウィークへと臨む事になりました。

写真:1978年ベルギーGP決勝(LAP67/70)、56周目のタイヤ交換による後退から猛追を見せ、レース残り4周となったバックストレート手前の高速コーナーで2位を走るカルロス・ロイテマンのフェラーリ312T3を捉えたロニー・ピーターソンのJPS16。ピーターソンは直後にバックストレートエンドのシケイン入口でロイテマンをパス、JPS20を駆って独走で優勝を飾ったマリオ・アンドレッティに続く2位でフィニッシュした。チーム・ロータスにとって1973年イタリアGP(コーリン・チャップマンがチームオーダーを発令せず、結果ピーターソンがチームメイトであるエマーソン・フィッティパルディの逆転タイトルの可能性を奪った事で物議を醸した)以来約4年半振りの1-2フィニッシュとなった。(ZDF


【FILE 90. 1978 Rd.6 BELGIAN GP – May.19 – 21 1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年7月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
このレースをもって最後の登場となったロニー・ピーターソンのレースカーJPS16。基本的に前戦のモナコと同仕様で、興味深いのはモナコよりも高速でありながらも、ストレートが短く右コーナーが多いゾルダーのレイアウトに対応する為、ほぼモナコの物に近い、かなりダウンフォースの強いリアウィングを装備している点で、メインエレメントとフラップの間がテープ状の素材で埋められている点、JPSストライプが途中で切れているのも同様です。この他ポーラー・キャラバンのホッキョクグマの位置・向きも変更ありません。またこのレースではピーターソンはニコルソン-マクラーレン・チューンのDFVを使用していますが、そのロゴの位置はモナコでのカムカバー後下方から前上方に移動しており、走行中の写真からも判別可能な状態になっています。
ゾルダーでは金曜のプラクティスから、アンドレッティのJPS20が終始他を1秒以上引き離す圧倒的速さを見せ付けて週末の話題を独占し、前年に続いて他の全ドライバーを戦意喪失に追い込みます。一方でピーターソンは特にトラブルも無く走行を重ね、金曜午前から土曜に至るまで全てのセッションを7位で終え、決勝は7位スタートとなりました。決勝のスタートではアンドレッティと並ぶ2位からスタートしたフェラーリのカルロス・ロイテマンが前戦モナコに続いてスタートに失敗、2速の加速で失速した事から2列目以降は大混乱となります。3位スタートのブラバムのニキ・ラウダはグリーンにマシンの左半分を逃がしながら混乱をすり抜けた5位スタートのウルフのジョディ・シェクターのリアに追突、ガードレールにクラッシュした他、ピーターソンの前後からスタートしたマクラーレンのジェームス・ハントとアロウズのリカルド・パトレーゼが接触、ハントもガードレールにクラッシュしてしまいます。この混乱から辛くも逃れたピーターソンは、1周目終了時で既に他を引き離しに掛かったアンドレッティ、4位スタートだったフェラーリのジル・ヴィルヌーヴ、ラウダに追突されながらも事無きを得たシェクターに続く4位に付けました。そして9周目にシェクターがエンジンのミスファイアでピットイン、ピーターソンは3位に順位を上げ、後ろにパトレーゼを従えて走行します。しかしそのパトレーゼは31周目にサスペンショントラブルでリタイア、そして40周目に2位を走っていたヴィルヌーヴの左フロントに装着されていたミシュランタイヤがホームストレートでバースト、ピーターソンはアンドレッティに大きく離されながらも2位に浮上し、これで新旧ロータスの1-2体制となりました。しかしピーターソンも右コーナーが多くタイヤに厳しいゾルダーで左フロントタイヤがブロー寸前となっていた為に56周目にピットイン、両フロントのタイヤを交換します。チーム・ロータスのピットワークは素晴らしく、20秒でピットアウトしたピーターソンはスタートの出遅れをリカバーしたロイテマンとリジェのジャック・ラフィーに先行されたものの、フレッシュなフロントタイヤで猛チャージを開始します。一方逃げるラフィー、ロイテマンは共に既に左フロントタイヤが限界に達しておりペースが上げられない状況で、最速ラップを連発して急追するピーターソンの敵ではなく、残り7周でラフィーを、残り4周でロイテマンをパスしたピーターソンは2位に復帰、終始余裕の走行を見せたアンドレッティの9秒後方でチェッカーを受けました。チーム・ロータスにとって1973年イタリアGP以来の1-2フィニッシュとなり、初日である金曜日に50歳となったコーリン・チャップマンにとっては最高の週末となると共に、この後展開される1978年シーズンの快進撃の幕開けを告げるものとなりました。
アンドレッティはレース後に行われたチームの祝勝会で、この1-2を前年のベルギーGP優勝者であるグンナー・ニルソンに捧げると述べ、チーム全員で祝杯に替えてニルソンの回復に祈りを捧げました。アンドレッティにとっては2年間を共に過ごしたチームメイトであり、ピーターソンにとってはスウェーデン出身で同郷の後輩であるニルソンの精巣癌はこの頃既に悪化の一途を辿っており、レース復帰はほぼ不可能と伝えられていました。
1977年開幕戦アルゼンチンGPで登場(初日にして消火器の爆発事故によっていきなり大破し、決勝は不出走)して以来1年半近くに及んで戦い続けて来たJPS16にとって、この週末が最後のレースとなりました。前年のベルギーGPでニルソンが勝利を挙げた他、この年のブラジルGPでポールポジションを獲得、そして続く南アフリカGPでの劇的な1勝を加えたJPS16にとって、今回の1-2達成と最速ラップはまさに有終の美を飾るものでした。以後JPS16はJPS17同様にスペアカーとなり、現場を退く事になります。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加
・右側キルスイッチ位置現示マークあり
・リアウィングに追加フラップあり
・リアウィングのJPSストライプが途中で切れている
・リアウィングにウィニング・ローレル2個(アルゼンチン、南アフリカGP)
・コクピット前方のロールフープを大型化
・ポーラー・キャラバンのロゴはモノコックのドライバー名右側に記入(左はフロント側、右はリア側が頭)
・ニコルソン-マクラーレンのロゴはカムカバー前上方に記入


<改訂履歴>
・v1.0(2012/12/31) 新規作成


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