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Lotus78 History & Markings – Vol.28 1978 International Trophy


今回はやや番外編的になりますが、1978年3月19日にシルバーストーンにて行われたノンタイトル戦、BRDCインターナショナル・トロフィーでのロータス78について取り上げます。この連載のVol.10でも記述しましたが、1970年代までは毎年イギリスでノンタイトルでのF1が開催されていました。当時イギリスGPがシルバーストーンとブランズハッチにて隔年開催されており、それに合わせてこのノンタイトル戦も交互に開催されていました。この1978年はイギリスGPがブランズハッチにて開催される事になっていた為、ノンタイトル戦はシルバーストーンにて日刊紙のデイリー・エクスプレスを冠スポンサーに、「BRDCインターナショナル・トロフィー」の名で、イギリス系チームを中心に15台の出走で開催されました。このレースでチーム・ロータスは遂に1978年用マシンであるロータス79(79/2=JPS20)をマリオ・アンドレッティのドライブでレースデビューさせますが、このマシンについてはまた別の機会に取り上げたいと考えています。一方のロニー・ピーターソンは従来のロータス78にて参戦しました。しかし決勝日は豪雨に見舞われてクラッシュが続出、完走僅か4台というレースを伏兵と思われたセオドールのケケ・ロズベルグが制しました。

写真:1978年インターナショナル・トロフィー決勝日、雨の中行われた朝のウォームアップ走行中に最終ウッドコート・コーナーでクラッシュしたロニー・ピーターソンのJPS16。ピーターソンのマシンの修復は断念され、ポールポジションからスタートする筈だった決勝の出場をキャンセルする事となった。(ESPN


【FILE 81. 1978 INTERNATIONAL TROPHY – March.18.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年5月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
この回ではロニー・ピーターソンが走らせたマシン2態について紹介しますが、シャシーナンバーについてはJPS16というのが定説になっているものの、以下に紹介する通り各所にスペアカーの特徴を強く残しており、JPS18である可能性も考えられます。まず最も目に付くのがドライバー後方のロールバーで、通常のピーターソン用の物よりも更に背が高い、グンナー・ニルソン用と思われる物が使用されています。一方フロント側のロールフープについては先の南アフリカGP決勝時と同様に大型化された物が使用されています。また、両サイドのラジエーターアウトレットのフィンも装備されていますが、フロントのオイルクーラー上方のフィンは装備されていません。マーキング面ではタバコ広告禁止のイギリスに合わせて両サイドプレート及びリアウィングのJohn Player Specialの文字は消されていますが、何故かコクピットカウルのJohn Player Specialの文字は残されています。そして左サイドプレートのカーナンバー6は、スペアカー用のブランク状態からステッカーで貼付された物と思われますが、何故か大きく傾斜しており、通常では直前のユニオンジャックに合わせた傾斜が付けられていますが、この時だけはほぼ直立に近い形状になっています。そして南アフリカGPで両コクピットサイドのドライバー名前方に移されたポーラー・キャラバンのロゴですが、左右ともフロント側に頭が来るように変更されています。また、スペアカーらしく?インダクションボックスのKONIロゴは有りません。

<外観上の特徴>
・ロールバーはグンナー・ニルソン用の背の高いタイプ
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・両サイドプレート及びリアウィングのJohn Player Specialの文字無し
・左サイドプレートのカーナンバー6が傾斜
・右側キルスイッチ位置現示マーク無し
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加
・コクピット前方のロールフープを大型化
・インダクションボックスのKONIロゴなし
・ポーラー・キャラバンのロゴはモノコックのドライバー名前方に記入(左右共にフロント側が頭)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/09/15) 新規作成


【FILE 82. 1978 INTERNATIONAL TROPHY – March.18.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年5月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
もう一つ紹介するのがこちらの姿で、両ラジエーターのエアアウトレット前面のフィンが撤去されています。また、開幕以来ピーターソンはレースウィークをロータス/ゲトラグ製のギアボックスでスタートしていましたが、この時は直前のシルバーストーン・テストでテストした際に壊れてしまったせいか、最初からヒューランド製のギアボックスで走行しています。
ピーターソンはこのマシンでポールポジションを獲得しましたが、大雨に見舞われた決勝当日、左の姿からコクピットカウルのNACAダクトとJohn Player Specialのロゴを黒テープで塞いで臨んだ午前中のウォームアップ走行中にピーターソンは最終ウッドコート・コーナーでコースオフ、キャッチフェンスに捕まってマシンのフロント部分とリアウィングにダメージを受けてしまい、決勝出走を断念しています。また、JPS20で予選3位からスタートしたアンドレッティも僅か3周目にしてアビー・カーブでコースオフ、マシンのフロント部分を大破、そして右側のエンジンマウントのソケットも破損してしまい、修復に時間を費やす事となりGPデビューが大きく遅れる事になります。

<外観上の特徴>
・ロールバーはグンナー・ニルソン用の背の高いタイプ
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・両サイドプレート及びリアウィングのJohn Player Specialの文字無し
・左サイドプレートのカーナンバー6が傾斜
・右側キルスイッチ位置現示マーク無し
・コクピット前方のロールフープを大型化
・ポーラー・キャラバンのロゴはモノコックのドライバー名前方に記入(左右共にフロント側が頭)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/09/15) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

– END –


Lotus78 History & Markings – Vol.27 1978 Rd.3 South African GP


今回はブラジルGPから6週間ものインターバルを経た3月4日(土曜日)にキャラミ・サーキットで決勝が行われた1978年南アフリカGPでのロータス78について取り上げます。1月の南米2戦を終え、各チームはこの6週間のインターバルの間にニューマシンの開発を進め、フェラーリやブラバムは1978年用マシンを完成させ、GP開幕に先立って同サーキットで行われたテストを経てレースに臨む事になりました。このテストはグッドイヤー、ミシュランの両タイヤメーカーにとっても重要な事前テストとして位置づけられ、前者は約10種類、3000本ものタイヤを持ち込む力の入れ様でした。一方キャラミ・サーキットは資金難から開催が危ぶまれていましたが、何とか全国紙であるシチズン・ニューズのスポンサーを得て開催に漕ぎ付ける事が出来ました。そしてレースは、トム・プライスの惨劇によって沈痛な空気に包まれた前年から一転、F1世界選手権として通算300戦目となる記念のレースにふさわしく、次々とトップが入れ替わり、最終ラップまで目が離せないエキサイティングなものとなりました。

写真:1978年南アフリカGP最終ラップ(LAP78/78)、コース奥のクラブハウス・コーナー立ち上がりでホイール・トゥ・ホイールのトップ争いを展開するパトリック・デパイエのティレル008(手前)とロニー・ピーターソンのJPS16。エンジントラブルによりパワーを失いながら必死の抵抗を見せたデパイエだったが、この直後のエセス・コーナー入口でピーターソンはデパイエのインをこじ開けてパス、チーム・ロータス復帰後初勝利を挙げた。(ZDF


【FILE 77. 1978 Rd.3 SOUTH AFRICAN GP – March.2-3.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年5月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初はプラクティスにおけるロニー・ピーターソンのJPS16。チーム・ロータスはキャラミまでに軒並みニューマシンを投入した他チームと異なり、引き続き前年型であるロータス78をこのレースでも使用しますが、更にマシンの開発は進められ、このレースからサイドスカートが従来のSuck-Downタイプからスライディングスカートへと変更されます。このスライディングスカートはニューマシンであるロータス79の開発からフィードバックされた物で、モノコック側に設けられたパンタグラフ状の板バネによってスカートを路面に押し付ける構造となっています。これによって加減速時のマシンの上下動の際にもスカートは路面からの空気の流入を防ぎ、より安定したダウンフォースが得られる様になっています。またこの他にも高速サーキットのキャラミに合わせ、リアウィングのエレメントは再びローダウンフォースの物が使用され、今回はガーニーフラップも装備されていない様に見えます。今回も両サイドラジエーターアウトレットのフィンは装備されていますが、前戦ブラジルGPにて用いられたフロントのオイルクーラーのフィンは外されています。またマーキングの特徴として、前戦まではインダクションボックスのエアインテーク部分に記入されていたポーラー・キャラバンのロゴはモノコック側面のドライバー名前方に移されています(向きは左右共にリア側が頭)。
ピーターソンは南アフリカでも引き続き、木曜日にロータス/ゲトラグ製ギアボックスを試すものの、やはりクラウンギアとピニオンが破損してしまいます。しかしスペアカーのJPS18はアンドレッティがレースカーであるJPS17のステアリングトラブルにより使用していた為に使用出来ず、ピーターソンは私服に着替えての見物を余儀なくされます。金曜日には結局ヒューランド製のギアボックスに戻したものの、セットアップが不十分な上に今度は短いキャラミのコースでトラフィックに苦しみ、予選結果は12位という不本意な物に終わってしまいました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・ポーラー・キャラバンのロゴはモノコックのドライバー名前方に記入(左右共にリア側が頭)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/31) 新規作成


【FILE 78. 1978 Rd.3 SOUTH AFRICAN GP – March.4.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年5月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらがピーターソンが土曜の決勝にて使用したJPS16の姿。最大のポイントは、コクピット開口部前方に位置しているフロント側のロールフープが大型化され、干渉を避ける為にコクピットカウルに穴が開けられている点です。このモディファイが行われたタイミングは不明で、キャラミで撮影された写真の数点はこのロールフープが従来通りの物もあり、またピーターソンはスペアカーであるJPS18は使用していない事から、週末のどこかのタイミング(木曜の夜or金曜の夜)で行われた可能性が高いです。しかし太い金属パイプを曲げて従来のロールフープに溶接するという容易とは言えない作業であるはずで、可能ではあるもののピットでの一夜の作業で行われたのかという疑問も残ります。従って従来の形状の写真は直前のキャラミ・テストでの状態であった可能性も考えられます。また、決勝ではフロントノーズのオイルクーラーのエアインテーク上方にフィンを追加した状態で走行しています。
決勝ではピーターソンはストレートスピードの不足によりポジションを上げる事が出来ず、序盤は苦しい走行を強いられます。この為ピーターソンは予めブリスター対策としてイン側のショルダーを削っていた左フロントタイヤを温存し、我慢の走行に徹します。そしてピーターソンの期待は的中し、レースが中盤から終盤に差し掛かる頃、高地であるキャラミ名物のエンジントラブルが主な原因となり、彼の前を走るドライバーが次々と脱落を始めます。39周目にはルノー・ターボで高地の薄い酸素をものともせず圧倒的なストレートスピードを誇っていたジャン-ピエール・ジャブイーユがミスファイアで、53周目にはポールポジションからスタートしたブラバムのニキ・ラウダがエンジントラブルでリタイア、そして53周目から56周目にかけてサーティーズのルパート・キーガンとフェラーリのジル・ヴィルヌーヴがオイルをコースに撒いてリタイアした事が混乱に拍車を掛け、フェラーリのチームメイトであるカルロス・ロイテマン、マクラーレンのパトリック・タンベイがこのオイルに乗ってクラッシュ、さらに60周目には地元観衆の期待を背負い、一時はトップを走行していたウルフのジョディ・シェクターもエンジントラブルが原因でスピンしてリタイア、64周目にはチームデビュー2戦目ながらトップを快走していたアロウズのリカルド・パトレーゼまでもエンジントラブルでリタイアし、ピーターソンはティレルのパトリック・デパイエ、チームメイトのマリオ・アンドレッティ、そしてブラバムのジョン・ワトソンに続く4位にまでポジションを上げます。そして今度はワトソンがオイルに乗ってスピン、ピーターソンは労せずして3位に上昇するとレースも残り4周となった74周目にはエンジンからオイルが噴き始めたデパイエと、タイヤトラブルに苦しむアンドレッティの背後に急速に迫っていきます。そして75周目にガス欠により突然失速したアンドレッティをパスして2位に上昇します。しかしまだデパイエのテールは遠いと思われたファイナルラップ、ホームストレート直後のクローソン・コーナーで、デパイエは周回遅れとなっていたヘクター・レバーク(ロータス78/1を購入してプライベート参戦)の背後で、エンジントラブルが深刻化して失速を始めます。ピーターソンは瞬く間にレバークを抜けないデパイエの背後に迫りますが、デパイエは必死にピーターソンのホイールをヒットしながらラインを塞いで抵抗します。そのまま3台はもつれるようにしてコース奥のクラブハウス・コーナーに進入、ピーターソンは未だレバークを抜けずに立ち上がりで失速したデパイエのインにマシンをねじ込みます。そしてピーターソンは再度デパイエにホイールをヒットされながらも次のエセス・コーナーの進入でインをこじ開ける事に成功、そのまま最終コーナーを立ち上がってチェッカーを受け、波乱に満ちたドラマティックなレースを制しました。ピーターソンにとって、1976年イタリアGPでマーチを駆って優勝して以来1年半ぶりの優勝となったこの勝利は、「ピーターソンはもう終わった」とみなしていた周囲に対する見返しという、大きな意味を持った勝利となりました。

・フロントノーズのオイルクーラー上方にフィンを追加
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加
・コクピット前方のロールフープを大型化
・ポーラー・キャラバンのロゴはモノコックのドライバー名前方に記入(左右共にリア側が頭)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/31) 新規作成


【FILE 79. 1978 Rd.3 SOUTH AFRICAN GP – March.2-3.1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1978年5月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
マリオ・アンドレッティのJPS17も、プラクティス時はほぼJPS16と同様の姿をしており、サイドスカートはスライディングスカートに変更されている他、ストレートの長い高速サーキットのキャラミに合わせてリアウィングのエレメントはローダウンフォースの物に変更され、フロントのオイルクーラーのフィンは外されています。また、コクピット開口部前方のロールフープも従来通りの形状です。そしてマーキングの特徴として、コクピットカウル開口部前方のJohn Player Specialの文字の上方に、矩形の小さなステッカーが貼付されている模様です。このステッカーのディティールはクローズアップした写真が無い為に不明ですが、白地に赤い枠が描かれており、その内側に何か文字かイラストが描かれている様に見えます。
キャラミでのアンドレッティはプラクティスでトラブルが相次ぎます。木曜にはJPS17のステアリングロッドが破損してスペアカーのJPS18に乗り換え、更にその後修復されたJPS17に乗り換えたものの、今度はまたしてもコスワースのスペシャルDFVのフューエルメータリングユニットにトラブルが発生してしまいます。更に金曜には事前の精力的なテストにも拘わらずグッドイヤーのスペシャルタイヤが南アフリカの暑さの下でグリップを発揮出来ずに苦しみます。しかし最終的には何とか、ニューマシンBT46をデビューさせたブラバムのニキ・ラウダにポールポジションを譲ったものの、予選2位という結果を得ました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加。
・右側キルスイッチ位置現示マークなし


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/31) 新規作成


【FILE 80. 1978 Rd.3 SOUTH AFRICAN GP – March.4.1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1978年5月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
アンドレッティのJPS17も、JPS16同様に土曜の決勝時にはコクピット開口部前方のロールフープが大型化されました。FILE.78のJPS16の項でも述べましたが、実際にどのタイミングでこのロールフープの加工がおこなわれたのかは明確には判りません。また長身で元々リア側のロールバーが高くなっているピーターソンの為であればその作業を行った理由も判らなくもありませんが、小柄なアンドレッティのマシンにも同じタイミングで変更が加えられているのにも疑問が残ります。また、これに伴いFILE.79で紹介したコクピットカウルのJohn Player Secialの文字上方に有ったステッカーは消え、その部分から大型化されたロールフープが顔を出しています。またピーターソンのJPS16は決勝時にフロントノーズのオイルクーラーのエアインテーク上方にフィンを追加していますが、アンドレッティのJPS17にはこのフィンは装備されていない模様です。
土曜日の決勝前、オフィシャルのミスからスターティンググリッドの位置をめぐって混乱が発生します。ポールポジションのラウダは本来ストレート先のクローソン・コーナーに対してイン側となる右側にポジションを取る筈でしたが、オフィシャルの手書きによるグリッドではポールが左側と指示されていました。結局最終的に左右を入れ替える形で左側のグリッドからスタートしたアンドレッティは、スタートでギアシフトに失敗したラウダをパスしてトップでクローソン・コーナーへ進入、そしてそのまま得意のスパートを見せて後続を大きく引き離します。しかし17周目を過ぎた辺りからアンドレッティの左フロントタイヤはイン側にブリスターが発生、21周目には地元観衆の声援を受けて走るシェクターにトップの座を明け渡します。その後もタイヤが苦しくなったアンドレッティはラウダ、パトレーゼ、デパイエにもパスされて5位に後退します。しかしFILE.78でも紹介した通り53周目にラウダが、そして60周目にシェクター、64周目にパトレーゼと彼の前を走るドライバーが次々に脱落した為、アンドレッティはデパイエに続く2位までポジションを回復します。そしてレースも残り5周となった74周目、デパイエのエンジンからオイルが噴き始めるとアンドレッティはデパイエとの差を縮め始めましたが、75周目にコース奥のクラブハウス・コーナーの立ち上がりで突然ガス欠により失速、すぐ背後まで迫っていたチームメイトのピーターソンにパスされて3位に後退します。アンドレッティは残り3周で給油の為ピットインを余儀なくされ、しかも既に燃料供給系に空気が入ってしまっていた為にエンジンのリスタートに手間取り、レースに戻った時には既に1周遅れの7位にまで後退しており、そのままチェッカーを受ける事になりました。アンドレッティのガス欠の原因は、ボスのコーリン・チャップマンがレース前、アンドレッティのタイヤへの負担を緩和する為の車重低減を目的として燃料を3ガロン抜く様にメカニックに指示した為とされています。チーム・ロータスのメカニックであったグレン・ウォータースは、「メカニックの間では、通常チャップマンから燃料を抜く様に指示された場合、誤差を考慮して1ガロンは多く残しておく”the mechanic’s gallon”と呼ばれる習慣があったが、今回はチャップマンが直接その作業を監督していた為、正確に3ガロンを抜かざるを得ず、この為にアンドレッティは勝てるレースを落としてしまった」と証言しています(但し1周が短いキャラミと言えど、1ガロンの燃料では残り3周を走り切れたかどうかは疑問)。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加。
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・コクピット前方のロールフープを大型化


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/31) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

– END –


Lotus78 History & Markings – Vol.26 1978 Rd.2 Brazilian GP


今回はアルゼンチンGPから2週間後の1月29日に決勝が行われた1978年ブラジルGPでのロータス78について取り上げます。舞台となるサーキットは前年まで開催されていた首都サンパウロ近郊のインテルラゴスから、カーニバルで有名なリオデジャネイロ近郊のジャカレパグア・サーキットへと移り、以後1990年に改修されたインテルラゴスに戻るまでブラジルGPの舞台となる事になりました。サーキットの特性も大きく変わり、アップダウンが激しい高速コースのインテルラゴスとは対照的にジャカレパグアのコースはほぼフラットで、1kmあるバックストレートと短いホームストレートを除けばツイスティな鋭角コーナーが連続するストップ&ゴータイプのサーキットで、サリスバリー製のデフの効果でコーナーからの立ち上がりに優れるロータス78に有利なサーキットと見られていました。

写真:1978年ブラジルGP決勝(LAP15/63)、バックストレートで5位を争うロニー・ピーターソンのJPS16(左)とジル・ヴィルヌーヴのフェラーリ312T2。2台はこの先のサル・コーナーの進入で接触、共にコースオフを喫してしまう。2人にとっては前年の日本GPに続く因縁の接触となった。(ZDF


【FILE 73. 1978 Rd.2 BRAZILIAN GP – January.27-28.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年4月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初は、ロニー・ピーターソンのJPS16。イラストはプラクティスの状態と思われ、前戦アルゼンチンGPから外観上の差異は殆ど見られませんが、中速サーキットであるジャカレパグアに合わせてリアウィングのエレメントが変更され、非常に曲率が大きくかつガーニーフラップも装備されたハイダウンフォースな物が採用されています。前戦アルゼンチンGPで優勝を上げた事によりウィニング・ローレルの有無が気になる所ですが、写真を見る限り記入されていない様です。またこのレースでピーターソンはニコルソン-マクラーレン・チューンのDFVを使用した模様です。
ピーターソンは金曜日の最初のセッションで、アルゼンチンでのトラブルから改良を受けたロータス/ゲトラグ製ギアボックスを試すものの、またも早々にトラブルが発生して大きく出遅れてしまいます。午後にはヒューランド製のギアボックスに戻されたものの6位に留まります。しかしセットアップを煮詰めてアンダーステアを解消したピーターソンは土曜日のセッション終了間際にトップタイムを記録、自身にとって1976年オランダGP以来1年半振り、通算13回目のポールポジションを獲得しました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備
・ポーラー・キャラバンのロゴはインダクションボックスのエアインテーク側面に記入(左右共にリア側が頭)
・ニコルソン-マクラーレンのロゴはカムカバー後上方に記入


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/10) 新規作成


【FILE 74. 1978 Rd.2 BRAZILIAN GP – January.29.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年4月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらが決勝時のJPS16。注目点はフロントノーズのオイルクーラーのエアインテーク上方にフィンが追加されている点です。アルゼンチンに続く酷暑のコンディションに配慮してか、オイルクーラーに強制的に空気を取り込む様な形状をしています。
決勝を久し振りのポールからスタートしたピーターソンでしたが、スタートでホイールスピンが多かった為、4位スタートからダッシュを決めたフェラーリのカルロス・ロイテマンにパスされて2位に後退、その後もまたしてもアンダーステアに苦しむ事になったピーターソンは瞬く間にロイテマンに引き離され、そして周回が進むにつれマクラーレンのジェームス・ハント、チームメイトのマリオ・アンドレッティ、そして地元観衆の大声援を受けて健闘を見せるコパスカーのエマーソン・フィッティパルディに次々とパスされて5位に後退します。そして15周目、バックストレートでフェラーリのジル・ヴィルヌーヴがピーターソンのスリップストリームを捉えます。ストレートエンドにある高速左コーナーのサル・コーナーの進入ではピーターソンはヴィルヌーヴに先んじたものの、強引にインを突いて来たヴィルヌーヴの右フロントタイヤとピーターソンの左リアタイヤが接触、共にコースオフを喫してしまいます。ヴィルヌーヴに遅れてコースに復帰したピーターソンはタイヤ交換の為にピットイン、コースに復帰しますが、先の接触により左リアサスペンションが既に壊れており、コースアウトを喫したピーターソンはリタイアとなってしまいました。マシンを降りた後もコースサイドに留まり、ヴィルヌーヴに対して抗議の拳を振り上げていたピーターソンは、ピットに戻るとアンドレッティのサインボード係を務めていました。
シーズン開幕前、アンドレッティはピーターソンのチーム復帰を歓迎していなかった事から、2人のドライバー同士の関係がチーム・ロータスの最大の懸念材料と思われていました。しかしチーム内での自分の立場を十分に理解しており、更にアンドレッティのテストやレースにおけるプロフェッショナリズムに大きな感銘を受けたピーターソンは、シーズンが進むにつれアンドレッティへの称賛と敬意を公言する様になります。そして2人のドライバーは共に最高のチームメイトとして協力し合う様になり、この年F1の歴史に残る最強コンビを形成する事になります。

・フロントノーズのオイルクーラー上方にフィンを追加
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備
・ポーラー・キャラバンのロゴはインダクションボックスのエアインテーク側面に記入(左右共にリア側が頭)
・ニコルソン-マクラーレンのロゴはカムカバー後上方に記入


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/10) 新規作成


【FILE 75. 1978 Rd.2 BRAZILIAN GP – January.27-28.1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1978年4月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
マリオ・アンドレッティのJPS17のプラクティスにおける姿。JPS16同様に曲率の大きなリアウィングのエレメントを採用している以外は、ほぼアルゼンチンGPでのレース時に近い姿をしています。同様にリアウィングのウィニング・ローレルも描かれていない様です。また、アンドレッティはこのレースでも引き続きコスワースのスペシャルDFVを使用した模様です。
戦前の予想通り、アンドレッティはこのジャカレパグアでは金曜日から好調でトップタイムをマークします。しかし土曜日のセッションでは一転不運に見舞われてクリアラップを取る事が出来ず、トップタイムをマークしたピーターソンに遅れる事コンマ2秒で予選3位というやや不満足な結果に終わりました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加。
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/10) 新規作成


【FILE 76. 1978 Rd.2 BRAZILIAN GP – January.29.1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1978年4月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
アンドレッティのJPS17も、決勝時にはJPS16同様、フロントノーズのオイルクーラー上部にフィンが追加され、オイルクーラーの冷却効果を高めています。
決勝を3番手からスタートしたアンドレッティはスタートでロイテマンに先行されましたが、5周目に後退して来たピーターソンとハントをパスして2位に浮上、トップを快走するロイテマンを追います。しかし既にミシュランタイヤのアドバンテージを活かして大きなリードを築いていたロイテマンとの差を詰める事が出来ず、対するグッドイヤーのエースであるアンドレッティはアンダーステアに苦しみ、次第に引き離されて行きます。逆転は不可能と判断したアンドレッティはペースを落として2位キープに切り替えますが、レースも残り7周となった56周目に最も頻繁に使う3速ギアがオーバーヒートにより破損、ギアボックスにトラブルが発生して4速ギアのみでの走行を強いられます。タイトコーナーの立ち上がりは勿論、ストレートスピードも伸びなくなったアンドレッティはペースを大きく落とし、狂喜する地元観衆の大声援に後押しされたフィッティパルディに58周目にパスされて3位に後退、更に61周目にブラバムのニキ・ラウダにもパスされ、結局4位でチェッカーを受けました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのオイルクーラー上方にフィンを追加
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加。
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備


<改訂履歴>
・v1.0(2012/08/10) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

– END –


Lotus78 History & Markings – Vol.25 1978 Rd.1 Argentine GP


前回から約2か月のブランクが有りましたが、Lotus78 History & Markingsの連載再開、そして今回よりいよいよ1978年編へと突入し、1978年1月15日に決勝が行われた開幕戦アルゼンチンGPでのロータス78について取り上げます。チーム・ロータスは前年に引き続きエースを務めるマリオ・アンドレッティと、アロウズへ移籍したグンナー・ニルソン(実際には既に闘病生活に入っており、レースには不参戦)に代わり、約2年振りのチーム復帰となったロニー・ピーターソンというコンビで1978年シーズンに臨む事になりました。チーム・ロータスは既に1977年12月にフランスのポール・リカールにて、後にF1の歴史に残る名車となるロータス79を1978年用マシンとして発表していましたが、79はマシン自体、そして搭載を予定していたゲトラグ社との共同開発となるオリジナル・ギアボックスは共に開発途上にあり実戦で戦えるレベルになっていなかった為、前年型の78で引き続き1978年シーズン序盤を戦う事になりました。
GP開催地となるブエノスアイレス・サーキット(後にオスカー・ガルベス・サーキットと改称)はブエノスアイレス郊外に有る湖を囲む様にレイアウトされたサーキットで、立地上コースはほぼフラット、前半となる湖の周回路はオーバルに近い(但し右回り)超高速区間、そして後半はツイスティな低速区間というレイアウトでしたが、それ以前に治安の悪さで関係者の評判はすこぶる悪く、ブエノスアイレス市街どころかサーキットの中、コースサイドに至るまで武装兵士が絶えず監視しているという異様な雰囲気の中でレースが開催されていました。そしてフォークランド紛争により1981年を最後にF1カレンダーから外れましたが1995年に復活、この時はスタート地点から湖の周回路をショートカットして低速区間のみを使用して行われたものの、やはり関係者の評判は芳しくなく1998年を最後にアルゼンチンでのF1開催は途絶えています。

写真:1978年開幕戦アルゼンチンGP決勝(LAP52/53!)、ポールポジションから独走し、地元アルゼンチン出身でワールド・チャンピオン5回の偉人ファン・マヌエル・ファンジオが振り下ろすチェッカーを受けるマリオ・アンドレッティのJPS17。この直前、ファンジオは周回遅れに近かったロニー・ピーターソンをアンドレッティと勘違いしてチェッカーを振ってしまい、レースは記録上当初の53周より1周少ない52周で終了となったという曰く付きのシーンでもある。前年ランキングこそ3位に終わったものの最多勝(4勝)、最多ポール(7回)、最多リードラップ(279周)を記録したアンドレッティとJPS17の最速コンビは1978年になっても健在で、終始全く後続を寄せ付けず完璧な勝利を飾った。(ZDF


【FILE 69. 1978 Rd.1 ARGENTINE GP – January.13-14.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年3月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初に紹介するのは約2年振りのチーム復帰となったロニー・ピーターソンのレースカーとなったJPS16。前年同郷の後輩であったグンナー・ニルソンはシーズン終盤にはレースカーとしてJPS18を使用しましたが、アンドレッティ同様ピーターソンも軽量化シャシーのJPS18は気に入らず、以後JPS18はスペアカーとして用いられる事になりました。リアウィングにはガーニーフラップが装備され、そしてシーズンが新しくなった事によりウィニング・ローレルが消えており、その他モノコック左側にあったキルスイッチ位置現示マークが無くなっている事も挙げられます。ピーターソンのマシンの特徴として、ロールバーの高さがアンドレッティ用よりも高くなっている事が挙げられますが、しかし前年のニルソン用の物よりもやや背が低く、頂部はインダクションボックスより僅かに高い程度のものとなっています。また、インダクションボックス両脇にはパーソナルスポンサーであるポーラー・キャラバンのホッキョクグマを模したロゴ(左右共に頭がリア向き)が貼付されています。このロゴはJPSカラーではなく、KONIのロゴと同様に金箔となっているのが特徴です。
ピーターソンは金曜日に、冒頭に紹介したロータス/ゲトラグ製の新開発ギアボックスをJPS16に搭載して走行しました。このギアボックスは従来のヒューランド製と比較して非常に軽量・コンパクトで、かつクラッチ操作なしでシフトが可能という特徴を備えていました。また外観上の特徴として、リアのオイルクーラーがウィングステーに沿って垂直に取り付けられています。かつてロータス76(JPS9)でクラッチレス・シフトを経験しているピーターソンはオフからテストを積み重ねていましたが、このギアボックスは繊細でトラブルが多く、金曜のセッションでも総合5番手タイムとまずまずの結果を残しながらも間もなくセレクション系にトラブルが発生、土曜日以後はヒューランド製に戻される事になりました。土曜日は重いヒューランドのギアボックスにセットアップが合わず、グッドイヤーのスペシャルタイヤも繊維剥離してしまうという不運はあったものの3番手にポジションを上げ、決勝に臨む事になりました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備
・ポーラー・キャラバンのロゴはインダクションボックスのエアインテーク側面に記入(左右共にリア側が頭)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/07/28) 新規作成


【FILE 70. 1978 Rd.1 ARGENTINE GP – January.15.1978】 v1.0
JPS16(78/2) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年3月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらが決勝時のJPS16。最大の特徴として、前年の南アフリカGPで装備されていたラジエーターのエアアウトレット前面のフィンが復活した事が挙げられます。しかし前年の仕様とは若干異なり、フィンの周囲にパーツが張り出しており、その一部がサイドウィング上面のJPSストライプを覆う様になっています。目的としてはラジエーターを通過した空気の抜けを良くし、冷却効率を高める効果、そして僅かながらサイドウィング上面で得られるダウンフォースの増加が考えられますが、何故このタイミングで突然復活したのかは不明です。このフィンはこの後ほぼ標準的に装備される事になります。またエンジンについては、カムカバーにニコルソンのロゴが見当たらない事、コスワースのスペシャルDFVはアンドレッティが使用していたと思われる為、ピーターソンはノーマル仕様のDFVを使用した可能性が高そうです。また余談ながら、ピーターソンのトレードマークであるヘルメットの黄色いヒサシですが、このレースではなぜか青いヒサシが用いられた様です。
決勝を3番手からスタートしたピーターソンでしたが、アンドレッティとは対照的にハードタイヤを選択した事が裏目に出てしまい、土曜日同様にヒューランドのギアボックスにセッティングが合っていない事も相まって酷いアンダーステアに苦しみます。スタートこそロイテマンをパスして2番手に上昇したものの直ぐに抜き返され、やがてワトソン、ラウダのブラバム勢、そしてティレルのパトリック・デパイエにパスされ、徐々にポジションを落として行きます。更にレース中盤を過ぎた頃からコクピット内の熱によりスロットルペダルが過熱、右足に火傷による水脹れが出来てしまい、アクセルオフ時は足を完全にペダルから離しながらのドライビングを強いられます。しかも53周レースも残り1周となりコントロールラインを通過しようとした時、ピーターソンをアンドレッティと勘違いした競技長のファン・マヌエル・ファンジオがピーターソンにチェッカーを振ってしまいます。レースが終了したものと思いペースを落としたピーターソンは、レーシングスピードで迫ってくる後続車に慌てる破目になりますが、レースは52周で終了となり、ピーターソンはチーム復帰戦を5位というリザルトで終える事になりました。

・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加。
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備
・ポーラー・キャラバンのロゴはインダクションボックスのエアインテーク側面に記入(左右共にリア側が頭)


<改訂履歴>
・v1.0(2012/07/28) 新規作成


【FILE 71. 1978 Rd.1 ARGENTINE GP – January.13-14.1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1978年3月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
前年に引き続き、マリオ・アンドレッティはJPS17をレースカーとして使用しました。イラストはプラクティスの状態と思われる状態で、興味深いのは右サイドウィング後端部分のJPSストライプが消えている様に見える事です(左サイドは不明)。またフロントウィング翼端板はこれまでJPS17に装備されていた半月型から、ニルソンのJPS16が装備していたのと同様の舟形に改められ、以後シーズンを通じてこの形状が使用される事になります。また、文献には特に記述は無いものの、1978年も引き続きアンドレッティはコスワースのスペシャルDFVをメインで使用した物と思われます。
1月の猛暑に見舞われたアルゼンチンでのアンドレッティは、前年の爆発事故程は酷くはなかったものの金曜からいきなり躓いてしまい、午前はフューエルメータリングユニットのOリング不良によりまともに走れず最下位に沈みます。それでも午後には地元観衆の大声援と新たに参入したミシュランタイヤのサポートを受けたフェラーリのカルロス・ロイテマンに次ぐ2番手のタイムを刻むものの、今度はエンジンがブローしてしまいます。しかし最終的に土曜には、ロイテマンのタイムをコンマ1秒破ってポールポジションを獲得しました。この結果はミシュランに対抗する為にグッドイヤーがトップチームにのみ、各2セットづつ供給したスペシャルタイヤをアンドレッティが上手く活かした事も大きな要因でした。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・右サイドプレート後端部分のJPSストライプ無し(左側は不明)
・リアウィングにガーニーフラップ装備


<改訂履歴>
・v1.0(2012/07/28) 新規作成


【FILE 72. 1978 Rd.1 ARGENTINE GP – January.15.1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1978年3月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらが決勝時のJPS17で、JPS16同様にラジエーターのエアアウトレット前面のフィンが装備されています。また、プラクティス時には消えていた右サイドプレートのJPSストライプは描き直されたのか、この決勝仕様ではハッキリと確認出来ます。
決勝でソフトタイヤをチョイスしたはアンドレッティはポールポジションからスタートを決め、逆にハードタイヤでペースが上がらないロイテマンをみるみる引き離し、序盤にして早くも10秒以上のリードを築きます。レース中盤に入って左フロントタイヤにブリスターが発生したアンドレッティは、2位を走行するブラバムのジョン・ワトソンとの10秒のギャップを保ちながら、タイヤを労わりながらの走行を強いられます。しかしアンドレッティは結局フィニッシュまで全くテールを脅かされる事が無いまま、最終的に2位となったブラバムのニキ・ラウダに13秒もの大差を付けてフィニッシュ、独走で開幕戦勝利を挙げました。このアンドレッティの独走ぶりは、マクラーレンのジェームス・ハントが、78/1を譲渡されたメキシコ人ドライバー、ヘクター・レバークを引き合いにして、「俺にもロータス78を1台譲ってくれ!」とコメントした程でした。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・ラジエーターのエアアウトレット前面にフィンを追加。
・右側キルスイッチ位置現示マークなし
・リアウィングにガーニーフラップ装備


<改訂履歴>
・v1.0(2012/07/28) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

– END –


Lotus78 History & Markings – Vol.24 1977 Rd.17 Japanese GP


この連載も開始から数えて24回目、今回はいよいよ1977年最終戦の日本GP(10月23日決勝)でのロータス78について取り上げます。前年の1976年に富士スピードウェイで初開催となった日本でのF1ですが、この時は同年の全日本F2000選手権が「日本GP」として開催された為、スポーツニッポン新聞社が主催する「F1世界選手権イン・ジャパン」という名称で開催されました。1977年は当初4月15日に第5戦として開催される予定でしたが、スポーツニッポン側が赤字を理由に撤退、一時は中止の報道も大々的に流れましたが、JAFが運営を引き継いだ上でFIAに日程延期を申し入れて了承され、10月23日決勝で名称も「F1日本GP」として開催される事になりました。しかし混乱はこれに留まらず、レースでは6周目の1コーナーでフェラーリのジル・ヴィルヌーヴがティレルのロニー・ピーターソンに追突するアクシデントが発生、宙を舞ったヴィルヌーヴのマシンが立入禁止区域に居た観客を巻き込み、死者2名、重軽傷7名の惨事が発生、この年をもってJAFはFIAにしてF1GPの開催権を返上、次の日本でのF1GP開催は10年後の1987年の鈴鹿まで待つ事になったのは、ファンには既にご存知の通りの事です。

写真:1977年日本GP決勝(LAP63/73)、ギアボックスのトラブルによりピットでリタイアし、インペリアル・カラーに彩られた78/4から降りるグンナー・ニルソン。この瞬間がニルソンのレーシング・ドライバーとしての最後の姿となった。その後ニルソンはこの時既に発症していた癌との闘病も空しく、1年後の1978年10月20日に他界する。享年29。GPデビュー2年目にして初優勝を挙げ、今後の更なる活躍が期待されていただけに、余りにも早く、そして惜しまれる死であった。(Motors TV


【FILE 66. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.21-23.1977】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti


参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初に紹介するのはマリオ・アンドレッティのレースカーJPS17。前々戦USGPイースト、前戦カナダGPに続くフライアウェイとなり、マシンはカナダからイギリスへ戻る事無く日本に持ち込まれました。しかしチーム側は引き続きマシンのモディファイを続け、この日本GPではサイドプレートが後方に延長されています。またこの延長部分の側面形状は、サイドスカート後端のアップスイープ部分とは不連続になっているのが特徴で、これに伴いSuck-Downタイプのサイドスカートも後方に延長されています。恐らくサイドプレートとリアタイヤの隙間を狭めて空気の流入を防ぎ、より効率良くダウンフォースを得ようとする狙いが有った物と思われますが、写真を見る限りその延長部分がリアタイヤと干渉しそうな程になっています。この他カナダで装着されていたリアウィングのフラップはストレートの長い富士では撤去されています。マーキング面ではインダクションボックス右側フロント寄りに車検合格証ステッカー(赤い円状)が貼付されています。また、このレースでアンドレッティはオランダGP以来久し振りにニコルソン-マクラーレン・チューンのDFVを使用しています。
前年の富士の覇者であるアンドレッティは引き続き金曜日から好調で、医師の到着が遅れた為にこの日唯一のセッションとなったプラクティスでマクラーレンのジェームス・ハントを僅差で抑えてトップに立ちます。気温が上昇した土曜日には固めのタイヤで走行してハント共々タイムを更新する事は出来ませんでしたが、それでも金曜のタイムは破られる事無くアンドレッティは今シーズン実に7回目、富士では2年連続となるポールポジションを獲得しました。しかし日曜の決勝ではスタートに完全に失敗して後方集団に飲み込まれ、1周目終了時点で8位まで順位を落としてしまいます。レースはまだスタートしたばかり、しかも自身が最速であるにも拘わらずリカバリーを焦ったアンドレッティは2周目の100Rで7位を走るリジェのジャック・ラフィーに対してアウトから無理にオーバーテイクを仕掛けた結果、JPS17の右フロントホイールはリジェのリアホイールと接触、コースオフしてコース左側のガードレールにクラッシュしてしまいます。しかもその時に左リアのホイールが外れてコースに戻ってしまい、純日本製オリジナルシャシーのコジマで参戦していた高原尚武と、サーティースのハンス・ビンダーを巻き込んでリタイアに追い込んでしまいました。

<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は半月形タイプ
・右側キルスイッチ現示位置のデザイン変更
・サイドプレートとサイドスカートを後方に延長
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
・ニコルソン-マクラーレンのロゴは両バンク前下方のカムカバーに記入


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成


【FILE 67. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.22.1977】 v1.0
78/4 Driver: Gunnar Nilsson


参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
1977年日本GPのグンナー・ニルソンのマシンと言えば、この美しく印象的なインペリアル・カラーです。エントラント名は「John Player Team Lotus」ではなく「Imperial International」とし、マシン名も「JPS18」ではなく「Imperial International Lotus 78/4」と命名されました。このイラストは土曜日時点と想像される状態です。マシンはモスポートでのクラッシュの後、カナダで修復作業を行った後、日本に持ち込まれました。塗装作業は金曜日の夜に行われたとされ(JPSカラーで走行したと思われる金曜日の姿は写真が無い為に不明)、富士スピードウェイ正門前にある「バッファロー・ガレージ」にて徹夜の突貫作業で塗装され、土曜の朝にはインペリアル・レッドにカラーリングされた状態で再びパドックへ現れました。雑誌「グランプリ・モデリスタ」Vol.1(モデル・カーズ2001年5月号増刊)に、この時に作業を行ったバッファロー・ガレージ代表の佐藤義人氏の貴重なインタビューが掲載されていますので、興味のある方は是非入手してみては如何でしょう。尚、同誌の由良拓也氏のインタビューにて、インペリアルのマーキングは地元の看板屋が描いたのではないかと語っていますが、しかし朝一番にロゴ無しの状態(写真確認済)でやって来たマシンを、朝の走行開始までの短時間で複雑なインペリアルのロゴと文字を全て手描きで完成させたとは考えにくく、インペリアルのロゴは他のスポンサーロゴと同じくステッカーで貼付されたと考えるのが妥当と思います。そのスポンサーロゴですが、JPS仕様とは貼付位置がそれぞれ微妙に異なっており、リアウィングのGOODYEARロゴと両サイドのカーナンバー6はやや上方、インダクションボックスのKONIロゴとモノコックのNGKロゴはやや前寄り、そして左側のValvolineロゴはかなり前方に貼付されています。キルスイッチ現示位置のマークはありません。この他車検合格証ステッカーはJPS17と異なりロールバー頂部に近い右側(インダクションボックスの吸気口付近)に貼付されています。また興味深いのは、同誌にはサイドスカートが通常のSuck-Downタイプではなく、ダミーと思われるゴム製の黒い物が装着された写真も掲載されています。

<外観上の特徴>
・インペリアルカラー
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・リアウィングの追加フラップ撤去


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成


【FILE 68. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.23.1977】 v1.0
78/4 Driver: Gunnar Nilsson


参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらが78/4の決勝時と思われる姿。前日の状態からJPS17同様にサイドスカートが後方に延長されており、これに伴いSuck-Downタイプのスカートも後方に延長されています。ただJPS17とは違って延長部分はサイドプレートのアップスイープに沿って伸びており、リアタイヤとのクリアランスもこちらの方が幾分か確保されており、見た目には非常に自然な感じになっています。しかし興味深いのはその延長部分の塗装で、サイドプレート本体とは異なりモノコック部分同様の明るい赤に塗装されています。何故、どの様な経緯でこの部分の塗装が違っているのか、非常に興味深い部分です。
ニルソンは土曜には油圧低下のトラブルに見舞われて順位を上げる事が出来ず、予選は14位と不本意な結果に終わりました。しかしレースはスタートで順位を上げて1周目終了時で12位、その後前述のアンドレッティ、ピーターソン、ヴィルヌーヴのアクシデントもあって14周目には6位まで順位を上げ、更に5位を走るリジェのジャック・ラフィーをパスして5位に上昇します。しかしニルソンの78/4はギアボックスが不調になり、次第にギアが入らなくなります。それでも6戦連続リタイアの続いているニルソンは何とかマシンをフィニッシュさせようと必死に走り続けました。しかしやがてシフトレバーも壊れ、リンケージを直接手で操作してまで走り続けたニルソンでしたがついに万策尽き果て、63周終了時をもってニルソンはマシンをピットまで運び、静かにマシンを降りました。2年間を過ごしたチームでの最後のレースを完走出来ずに7戦連続のリタイアとなってしまったニルソンは、とても残念がっていました。
自らの身体が精巣癌に冒されている事を告げられていたニルソンは、この後すぐにレーシング・ドライバーから一転、一人の人間として病魔との闘いの日々に身を投じます。そして悪化してゆく病状にもかかわらず、ニルソンは癌撲滅の為の基金「Gunnar Nilsson Cancer Foundation」を設立して癌撲滅キャンペーンを展開する一方、痛み止めの投与を拒否して癌と真っ向から戦い続けました。1978年7月16日にブランズ・ハッチで行われたイギリスGPには、頭髪が全て抜け落ちながらもパドックやピットで仲間との再会を喜ぶニルソンの姿がありました。そしてイタリアGPの事故で9月11日に他界した同郷の先輩ロニー・ピーターソンの葬儀では、自らの死期が近い事を悟りながらもピーターソンの棺に寄り沿うニルソンの姿がありました。そしてその一カ月後の1978年10月20日、ニルソンはロンドンのチャリング・クロス病院で静かに息を引き取りました。享年29。F1参戦32戦(出走31戦)、優勝・最速ラップ各1回、表彰台4回、通算獲得ポイント31。23歳から本格的にレースを始めたという遅咲きのスウェーデン人のF1キャリアは余りに短いものでしたが、その謙虚な人柄とは対照的なアグレッシブな走りは、確かな輝きを放ち、そして走り去って行きました。
しかしその後もニルソンの癌撲滅キャンペーンは終わる事無く、1979年6月3日にはドニントン・パーク・サーキットで「Gunnar Nilsson Memorial Trophy」の名でチャリティ・タイムトライアルが開催され、ウィリアムズからアラン・ジョーンズ、ウルフからジェームス・ハント、ロータスからマリオ・アンドレッティ、ブラバムからネルソン・ピケ、そしてアロウズからルパート・キーガン(リザルト順)が参戦しました(余り知られていない事ですが、この時ピケがブラバムBT46B「ファン・カー」をドライブしています。そしてハントはこの日を最後にレーシング・ドライバーを引退する事になりました)。また元ビートルズのジョージ・ハリスンは自らの曲の売上を寄付、イベントにも参加する等、ニルソンの遺志は彼を知る人々の手で受け継がれる事になりました。
「Gunnar Nilsson Cancer Foundation」は現在も活動を続けており、毎年スウェーデンの癌研究機関に収益金を寄付し続けています。


<外観上の特徴>
・インペリアルカラー
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・サイドプレートとサイドスカートを後方に延長
・リアウィングの追加フラップ撤去


<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成


ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。

– END –