今回で3回目になる1/20ロータス102製作記、今回よりいよいよキットの製作に入って行きます。
今回のロータス102製作の為に用意したアイテム。右は言うまでもなくベースキットとなるタミヤのロータス102B。タミヤは1991年にチーム・ロータスがピーター・コリンズ体制で全くのゼロからの再スタートを切った際、最初にスポンサーになった企業で、このキットはそのスポンサードを記念して発売されたキット。そしてその左にはSTUDIO27製の同キット用エッチングパーツセット。今回フロント/リアウィングの翼端板や、その他諸々を利用する予定。そしてその手前にはSHUNKO(俊光)製の102用デカールセット。前回紹介した通り、キット付属のデカールも品質は良好で充分使用に堪えるのだが、SHUNKO製はブルーの色調がキット付属の物よりも明るく自分好みなので、敢えてこちらを使用する事にした。
先ずはマニュアルの指示通り、ベースキットのコクピット部分のパーツをモノコックに合わせて削り込む。但しマニュアルではベースキットと同じく、インパネをフロント側のバルクヘッドに固定する様に指示しているが、今回はインパネをモノコック裏側に直接接着してしまう事にした為、完成後はまず見えないバルクヘッド上部は思い切ってカットしてしまう事にした。
右ラジエーターのエアアウトレット部分は、そのまま組み立てると内側リア寄りにパーツの厚みの分だけ段差が出来てしまうので、エポキシパテを使ってなだらかに整形。同時にフロント側はヤスリを使って薄く削り込む。ロールバー右側にはインターコムのコネクタを格納する四角形の窪みが有るのでこれを再現(赤○部分)。リアカウルのウィングレットもヤスリとペーパーを使って薄く削り込む。
特徴的なバットマン・ディフューザーも、垂直になっているスプリッター部分を中心に薄く削り込む。逆に上部の曲面部分は元々それなりに厚みが有る部分なので、形を整える程度で十分。また、ハンドメイドキット故にエッジ部分が甘くなっているので、ヤスリとペーパーを使って全体的にシャープになる様、形を整える。
モノコック部分を#500のサーフェーサーとペーパー掛けをしながら形を整える。同時にフロントサスペンション取付部分の穴を、パーツがストレス無く入る様に形を整える。またこの際、前回紹介した通りステアリングロッド部分の穴が102B仕様になっていた部分を修正、正しい位置に穴を開け直す(赤○部分)。
折角キットに付属していたリアカウルのウィングレットだったが、形状がどうしてもコークボトル部分の曲面にフィットしなかった為、結局プラバンで作り直す事に。ラジエーターアウトレット部分のパーティングラインは、直線的になる様に引き直し、エッジ部分もシャープになる様に加工したたつもりだったが、どちらもベース部分の甘さがやや残ってしまった。
フロントウィングの翼端板はSTUDIO27のエッチングパーツをベースに、プラバンで延長部分の曲面を作り、更に隙間をエポキシパテで埋めて自作。塗装後にスカートを追加してやる。
一方リアウィングの翼端板はSTUDIO27のエッチングパーツをそのまま利用。因みに本作品は、本当は空力至上マシンである102らしく、リアウィングはローダウンフォース仕様かつ翼端板は前後長の短い(幅が狭い)高速サーキット仕様にしたかったのだが、この中・低速サーキット仕様のエッチングパーツを活かす為、ポルトガルGP仕様として製作する事にした。
ミラーはベースキットの物を使用するが、この支柱もカッターの刃を立てて薄く削り込む。但し支柱には元々多少の厚みが有る為、紙の様にペラペラになるまでにはせず、程々に留める。
フロントウィングのメインエレメントは、ノーズ部分との隙間を埋める為、#500のサーフェーサー掛け時に予めノーズに固定してしまった。ここまで完了したらホワイトサーフェーサーを吹き、塗装準備が整った。因みにベースキットのパーツを流用するミラーやリアウィングのエレメントも、同時にホワイトサーフェーサーを吹いておいた。
今回はここまでになります。この後いよいよキャメルイエローへの塗装、そして車体側パーツの製作に取り掛かります。
– END –
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1/20ロータス102製作 – Vol.2
1/20のロータス102は現在どこのメーカーからもフルキットは発売されていない為、最も一般的なのはタミヤから発売されているロータス102Bをベースにするのが常道となるでしょう。そして当然?この事を見越してこれまで幾つかのトランスキットが、熱意あるプライベーターから散発的に発売されて来ました。Ketteringham Factoryでも過去にこれらのキットを目にして来たのですが、今回製作するのはその中でも現在のところベストキットと言える、日本のプライベーターNobulandから昨年登場したトランスキットで、今回はこのキットの内容をチェックしながら紹介したいと思います。
日本のプライベートメーカー、Nobulandから発売されている、「T102 1990 Rd.15 JAPAN」。F1のガレージキットも近年STUDIO27とModel Factory Hiroの「2大勢力」が、CAD/CAMと本格的な生産設備を駆使して素晴らしいクオリティのキットをリリースし続けているが、そんな中でもこの様な熱いプライベーターが頑張っているのは嬉しい限り。ハンドメイドのキット故、クオリティでは当然これらメーカーのキットからは数段劣ってしまうが、それでも随所にこだわりと作りやすさへの配慮が見られる。価格はやや高いが、これまで発売されて来た同種のトランスキットとは一線を画す内容となっている。
こちらはレジンパーツ。ボディは、モノコック、フロントノーズ、リアカウルが一体成型されている。また同種のキットでは恐らく初めてのポイントとして、ロールバーと左ラジエーターアウトレットを別パーツで構成しており、またエンジンとギアボックスもベースキットの流用ではなく新たにパーツを起こしており、加工不要としているのが素晴らしい。
メタルパーツはフロントウィング(本体、フラップ、翼端板)に加えて左ラジエーター、リアカウルのウィングレット、エキゾーストパイプと日本GPのジョニー・ハーバート仕様の変形ステアリング。因みにエキゾーストパイプをベースキットから流用しないのもこのキットが初めてと思われる。
デカールはこれまではSTUDIO27がイベント用として発売していたデカールを使うのが常道だったが、このキットでは初めてフルデカールを付けている。品質も良さそうだ。
次にボディ部分のチェック。表面は概ねスムーズでレジンの気泡も無く、クオリティは良好。ただ残念ながらフロントのステアリングロッドの位置(写真赤○部分)が102B仕様になっているので、ここは修正が必要。
左ラジエータアウトレットはダクト部分と共に別パーツで構成されている。エッジ部分が甘いのはハンドメイド故に仕方の無いところ。カウル後下端(写真赤△部分)は、キットでは黒塗装とする事を意図したものと思われるが、本来はアンダートレイと一体になっている部分なので、後に切り落としてアンダートレイに接着することにした。
エンジンカウル部分は後方に向かってやや広がった形状をしている。実車ではもう少し上面から見て直線的になっている様にも見えるが、イイ感じな形状になっているのでとりあえず修正はしない事にした。
このキットで最も素晴らしいと思うのは、フロントサスペンションの取付部分をベースキットと同じ形状にして、ベースキットのパーツを無加工で取り付けられる様に工夫している事(当然、多少の擦り合わせは必要)で、組み立て易さへの配慮が行き届いている。
では、いよいよこのキット製作に入りますが、今回はここまで。
– END –
1/20ロータス102製作 – Vol.1
ここまで1年間・24回に渡って続けて来た「Lotus78 History & Markings」も丁度1977年シーズンも終了という事で、一旦小休止とします。その理由は、久し振りに製作意欲が高まって来た(一部嘘です?)ので、1/20キット作りに勤しもうと考えた次第です。「Lotus78 History & Markings」の1978年シーズン編は、7月中頃から再開の予定としたいと思います。
写真:2004年7月18日、イギリス・ノーフォークのロータス・カーズ本社で行われたチーム・ロータス創立50周年記念イベントで展示された102(シャシープレートを撮り忘れた為、号車はは不明)。現在は実走可能なランボルギーニ・エンジンを搭載してフルレストアされているが、この当時はダミーエンジンで走行は不可能だった。フロントウィングのボルテックス・ジェネレータも102Bの物で、オリジナルではない。
さて、で肝心のキットですが、何を作ろうかとその選択に悩む事数週間、ここまで78や79の事について色々リサーチに取り組んで来たKetteringham Factoryですので、当然78 or 79かと思いきや、結果選択したのは意外にも1990年のロータス102/ランボルギーニという事になりました。
– END –
Lotus78 History & Markings – Vol.24 1977 Rd.17 Japanese GP
この連載も開始から数えて24回目、今回はいよいよ1977年最終戦の日本GP(10月23日決勝)でのロータス78について取り上げます。前年の1976年に富士スピードウェイで初開催となった日本でのF1ですが、この時は同年の全日本F2000選手権が「日本GP」として開催された為、スポーツニッポン新聞社が主催する「F1世界選手権イン・ジャパン」という名称で開催されました。1977年は当初4月15日に第5戦として開催される予定でしたが、スポーツニッポン側が赤字を理由に撤退、一時は中止の報道も大々的に流れましたが、JAFが運営を引き継いだ上でFIAに日程延期を申し入れて了承され、10月23日決勝で名称も「F1日本GP」として開催される事になりました。しかし混乱はこれに留まらず、レースでは6周目の1コーナーでフェラーリのジル・ヴィルヌーヴがティレルのロニー・ピーターソンに追突するアクシデントが発生、宙を舞ったヴィルヌーヴのマシンが立入禁止区域に居た観客を巻き込み、死者2名、重軽傷7名の惨事が発生、この年をもってJAFはFIAにしてF1GPの開催権を返上、次の日本でのF1GP開催は10年後の1987年の鈴鹿まで待つ事になったのは、ファンには既にご存知の通りの事です。
写真:1977年日本GP決勝(LAP63/73)、ギアボックスのトラブルによりピットでリタイアし、インペリアル・カラーに彩られた78/4から降りるグンナー・ニルソン。この瞬間がニルソンのレーシング・ドライバーとしての最後の姿となった。その後ニルソンはこの時既に発症していた癌との闘病も空しく、1年後の1978年10月20日に他界する。享年29。GPデビュー2年目にして初優勝を挙げ、今後の更なる活躍が期待されていただけに、余りにも早く、そして惜しまれる死であった。(Motors TV)
【FILE 66. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.21-23.1977】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti
参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初に紹介するのはマリオ・アンドレッティのレースカーJPS17。前々戦USGPイースト、前戦カナダGPに続くフライアウェイとなり、マシンはカナダからイギリスへ戻る事無く日本に持ち込まれました。しかしチーム側は引き続きマシンのモディファイを続け、この日本GPではサイドプレートが後方に延長されています。またこの延長部分の側面形状は、サイドスカート後端のアップスイープ部分とは不連続になっているのが特徴で、これに伴いSuck-Downタイプのサイドスカートも後方に延長されています。恐らくサイドプレートとリアタイヤの隙間を狭めて空気の流入を防ぎ、より効率良くダウンフォースを得ようとする狙いが有った物と思われますが、写真を見る限りその延長部分がリアタイヤと干渉しそうな程になっています。この他カナダで装着されていたリアウィングのフラップはストレートの長い富士では撤去されています。マーキング面ではインダクションボックス右側フロント寄りに車検合格証ステッカー(赤い円状)が貼付されています。また、このレースでアンドレッティはオランダGP以来久し振りにニコルソン-マクラーレン・チューンのDFVを使用しています。前年の富士の覇者であるアンドレッティは引き続き金曜日から好調で、医師の到着が遅れた為にこの日唯一のセッションとなったプラクティスでマクラーレンのジェームス・ハントを僅差で抑えてトップに立ちます。気温が上昇した土曜日には固めのタイヤで走行してハント共々タイムを更新する事は出来ませんでしたが、それでも金曜のタイムは破られる事無くアンドレッティは今シーズン実に7回目、富士では2年連続となるポールポジションを獲得しました。しかし日曜の決勝ではスタートに完全に失敗して後方集団に飲み込まれ、1周目終了時点で8位まで順位を落としてしまいます。レースはまだスタートしたばかり、しかも自身が最速であるにも拘わらずリカバリーを焦ったアンドレッティは2周目の100Rで7位を走るリジェのジャック・ラフィーに対してアウトから無理にオーバーテイクを仕掛けた結果、JPS17の右フロントホイールはリジェのリアホイールと接触、コースオフしてコース左側のガードレールにクラッシュしてしまいます。しかもその時に左リアのホイールが外れてコースに戻ってしまい、純日本製オリジナルシャシーのコジマで参戦していた高原尚武と、サーティースのハンス・ビンダーを巻き込んでリタイアに追い込んでしまいました。
<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は半月形タイプ
・右側キルスイッチ現示位置のデザイン変更
・サイドプレートとサイドスカートを後方に延長
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
・ニコルソン-マクラーレンのロゴは両バンク前下方のカムカバーに記入
<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成
【FILE 67. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.22.1977】 v1.0
78/4 Driver: Gunnar Nilsson
参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
1977年日本GPのグンナー・ニルソンのマシンと言えば、この美しく印象的なインペリアル・カラーです。エントラント名は「John Player Team Lotus」ではなく「Imperial International」とし、マシン名も「JPS18」ではなく「Imperial International Lotus 78/4」と命名されました。このイラストは土曜日時点と想像される状態です。マシンはモスポートでのクラッシュの後、カナダで修復作業を行った後、日本に持ち込まれました。塗装作業は金曜日の夜に行われたとされ(JPSカラーで走行したと思われる金曜日の姿は写真が無い為に不明)、富士スピードウェイ正門前にある「バッファロー・ガレージ」にて徹夜の突貫作業で塗装され、土曜の朝にはインペリアル・レッドにカラーリングされた状態で再びパドックへ現れました。雑誌「グランプリ・モデリスタ」Vol.1(モデル・カーズ2001年5月号増刊)に、この時に作業を行ったバッファロー・ガレージ代表の佐藤義人氏の貴重なインタビューが掲載されていますので、興味のある方は是非入手してみては如何でしょう。尚、同誌の由良拓也氏のインタビューにて、インペリアルのマーキングは地元の看板屋が描いたのではないかと語っていますが、しかし朝一番にロゴ無しの状態(写真確認済)でやって来たマシンを、朝の走行開始までの短時間で複雑なインペリアルのロゴと文字を全て手描きで完成させたとは考えにくく、インペリアルのロゴは他のスポンサーロゴと同じくステッカーで貼付されたと考えるのが妥当と思います。そのスポンサーロゴですが、JPS仕様とは貼付位置がそれぞれ微妙に異なっており、リアウィングのGOODYEARロゴと両サイドのカーナンバー6はやや上方、インダクションボックスのKONIロゴとモノコックのNGKロゴはやや前寄り、そして左側のValvolineロゴはかなり前方に貼付されています。キルスイッチ現示位置のマークはありません。この他車検合格証ステッカーはJPS17と異なりロールバー頂部に近い右側(インダクションボックスの吸気口付近)に貼付されています。また興味深いのは、同誌にはサイドスカートが通常のSuck-Downタイプではなく、ダミーと思われるゴム製の黒い物が装着された写真も掲載されています。<外観上の特徴>
・インペリアルカラー
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・リアウィングの追加フラップ撤去
<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成
【FILE 68. 1977 Rd.17 JAPANESE GP – October.23.1977】 v1.0
78/4 Driver: Gunnar Nilsson
参考資料:
・AutoSport 1977年12月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
こちらが78/4の決勝時と思われる姿。前日の状態からJPS17同様にサイドスカートが後方に延長されており、これに伴いSuck-Downタイプのスカートも後方に延長されています。ただJPS17とは違って延長部分はサイドプレートのアップスイープに沿って伸びており、リアタイヤとのクリアランスもこちらの方が幾分か確保されており、見た目には非常に自然な感じになっています。しかし興味深いのはその延長部分の塗装で、サイドプレート本体とは異なりモノコック部分同様の明るい赤に塗装されています。何故、どの様な経緯でこの部分の塗装が違っているのか、非常に興味深い部分です。ニルソンは土曜には油圧低下のトラブルに見舞われて順位を上げる事が出来ず、予選は14位と不本意な結果に終わりました。しかしレースはスタートで順位を上げて1周目終了時で12位、その後前述のアンドレッティ、ピーターソン、ヴィルヌーヴのアクシデントもあって14周目には6位まで順位を上げ、更に5位を走るリジェのジャック・ラフィーをパスして5位に上昇します。しかしニルソンの78/4はギアボックスが不調になり、次第にギアが入らなくなります。それでも6戦連続リタイアの続いているニルソンは何とかマシンをフィニッシュさせようと必死に走り続けました。しかしやがてシフトレバーも壊れ、リンケージを直接手で操作してまで走り続けたニルソンでしたがついに万策尽き果て、63周終了時をもってニルソンはマシンをピットまで運び、静かにマシンを降りました。2年間を過ごしたチームでの最後のレースを完走出来ずに7戦連続のリタイアとなってしまったニルソンは、とても残念がっていました。
自らの身体が精巣癌に冒されている事を告げられていたニルソンは、この後すぐにレーシング・ドライバーから一転、一人の人間として病魔との闘いの日々に身を投じます。そして悪化してゆく病状にもかかわらず、ニルソンは癌撲滅の為の基金「Gunnar Nilsson Cancer Foundation」を設立して癌撲滅キャンペーンを展開する一方、痛み止めの投与を拒否して癌と真っ向から戦い続けました。1978年7月16日にブランズ・ハッチで行われたイギリスGPには、頭髪が全て抜け落ちながらもパドックやピットで仲間との再会を喜ぶニルソンの姿がありました。そしてイタリアGPの事故で9月11日に他界した同郷の先輩ロニー・ピーターソンの葬儀では、自らの死期が近い事を悟りながらもピーターソンの棺に寄り沿うニルソンの姿がありました。そしてその一カ月後の1978年10月20日、ニルソンはロンドンのチャリング・クロス病院で静かに息を引き取りました。享年29。F1参戦32戦(出走31戦)、優勝・最速ラップ各1回、表彰台4回、通算獲得ポイント31。23歳から本格的にレースを始めたという遅咲きのスウェーデン人のF1キャリアは余りに短いものでしたが、その謙虚な人柄とは対照的なアグレッシブな走りは、確かな輝きを放ち、そして走り去って行きました。
しかしその後もニルソンの癌撲滅キャンペーンは終わる事無く、1979年6月3日にはドニントン・パーク・サーキットで「Gunnar Nilsson Memorial Trophy」の名でチャリティ・タイムトライアルが開催され、ウィリアムズからアラン・ジョーンズ、ウルフからジェームス・ハント、ロータスからマリオ・アンドレッティ、ブラバムからネルソン・ピケ、そしてアロウズからルパート・キーガン(リザルト順)が参戦しました(余り知られていない事ですが、この時ピケがブラバムBT46B「ファン・カー」をドライブしています。そしてハントはこの日を最後にレーシング・ドライバーを引退する事になりました)。また元ビートルズのジョージ・ハリスンは自らの曲の売上を寄付、イベントにも参加する等、ニルソンの遺志は彼を知る人々の手で受け継がれる事になりました。
「Gunnar Nilsson Cancer Foundation」は現在も活動を続けており、毎年スウェーデンの癌研究機関に収益金を寄付し続けています。
<外観上の特徴>
・インペリアルカラー
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・サイドプレートとサイドスカートを後方に延長
・リアウィングの追加フラップ撤去
<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/15) 新規作成
ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。
– END –
Lotus78 History & Markings – Vol.23 1977 Rd.16 Canadian GP
今回は前週のUSGPイーストから連続開催となった1977年第16戦カナダGP(10月9日決勝)でのロータス78について取り上げます。F1サーカスはワトキンス・グレンからそのまま陸路開催地であるカナダのオンタリオ州トロント近郊にあるモスポート・パークへ移動しましたが、このモスポートは特に安全面で関係者の評判が悪く、特にこの1977年は様々な問題が噴出します。コース自体は前戦のワトキンス・グレンやオーストリアのオステルライヒリンクに比較的類似したアップダウンの激しい高速コースでしたが、路面の舗装が悪くバンピーで、かつガードレールが十分に整備されておらず、マーシャルの数も予定されていた211名の半分にも満たない95名しかおらず、更に負傷者を搬送する為のヘリコプターも無い状態でした。そしてその懸念は現実のものとなり、金曜日のプラクティスでヘスケスのイアン・アシュレイがコースのバンプを乗り越えた際にコントロールを失い、ガードレールを飛び越えてその先のTV塔に激突するアクシデントが発生、アシュレイは一命を取り留めたものの脚と手首の骨を折る重傷を負い、1985年にアメリカのCARTに参戦するまでの長期間トップカテゴリーから遠ざかる事になりました。しかもこの時アシュレイをマシンから救出するのに40分もの時間を要し、更に病院へ搬送する為のヘリコプターがサーキットに到着するまで更に30分もの時間を要してしまいます。これを受けてドライバー達は出走拒否を示唆、結局急遽ガードレールの整備とヘリコプターが常駐する事になり、ようやく事態は収拾を見ました。しかしこの事もあってかカナダGPは翌1978年から、現在に至るまでカナダGPの開催地となっているケベック州モントリオールにあるノートルダム島に設けられたコース(1982年のジル・ヴィルヌーヴ死後、彼の名前が命名される)に移動する事になります。
写真:1977年カナダGP決勝(LAP2/80)、ポールポジションからスタートし、ジェームス・ハントのマクラーレンM26をリードするマリオ・アンドレッティのJPS17。前戦ワトキンス・グレンに引き続き展開された2人のバトルは、他の全車を周回遅れにしてしまう程の激しさを見せたが、思いもよらぬアクシデントによりハントは脱落、そしてアンドレッティも勝利を目前に脱落を強いられ、2人ともチェッカーを受ける事なくレースを終える事になる。(Motors TV)
【FILE 64. 1977 Rd.16 CANADIAN GP – October.7-9.1977】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti
参考資料:
・AutoSport 1977年12月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
今回も最初に紹介するのはマリオ・アンドレッティのレースカーJPS17。前戦USGPイーストからの連戦という事もあり殆どモディファイは見られませんが、唯一リアウィングのフラップが、前戦のガーニーフラップ状の物から、JPS18と同様にJohn Player Specialの上部1/5程度の面積を持った、やや大きな物に変更されています。また、このレースでもアンドレッティはコスワースのスペシャルDFVを使用しました。アンドレッティはカナダでは再び速さを見せ、金曜日のプラクティスからマクラーレンのジェームス・ハントを1秒以上引き離してトップに立ち、最終的にもハントに対してコンマ5秒以上の差を付けてポールポジションを獲得しました。レースでもスタートでトップをキープしてハントを引き離そうとしますが、ハントは必死に食い下がってアンドレッティのテールから離れず、両者は後続グループとは段違いの速さでバトルを展開していきます。そしてレースも終盤を迎えつつあった60周目、2人は3位を走っていたハントのチームメイトであるヨッヘン・マスのテールに迫り、全車を周回遅れにしようとします。しかしマスはセカンドドライバーの当然の務めとしてアンドレッティをブロック、これが功を奏して61周目のヘアピンコーナーでコースオフしかけたアンドレッティをハントがパス、トップに浮上します。しかしハントのリードは束の間で、翌62周目のターン3でマスはハントに進路を譲ろうとした際、同じ方向に進路を変えていたハントと接触、ハントはキャッチフェンスにクラッシュしてリタイア、マスもスピンという最悪の結果となります(マシンを降りた後もコースに留まり、マスに対して抗議の拳を振っていたハントは、コースから退去する様に指示したマーシャルを殴って2,750ドルの罰金を科される)。これによってリードを奪回したアンドレッティは独走状態となり、エンジン回転数を9,500回転にセーブ、そして縁石も踏まない様にして安全にマシンをチェッカーまで運ぶだけとなりました。しかしレースも残り3周となった77周目にコスワースのスペシャルDFVはまたもブロー、今季5度目のエンジンブローでのリタイア(記録上9位完走扱い)となりました。
<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は半月形タイプ
・右側キルスイッチのデザイン変更
・リアウィングに追加フラップ装備
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/03) 新規作成
【FILE 65. 1977 Rd.16 CANADIAN GP – October.7-9.1977】 v1.0
JPS18(78/4) Driver: Gunnar Nilsson
参考資料:
・AutoSport 1977年12月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
前戦に引き続きグンナー・ニルソンのレースカーとなったJPS18。前戦ワトキンス・グレンから外見上の変更点は殆ど無く、リアウィングの追加フラップも同じ仕様となっています。前戦ワトキンス・グレンでクラッシュしたJPS18は連戦という事もあり時間が取れず、修復こそ成ったもののトーインやキャンバーといったサスペンションのイニシャルセッティングも出来ていない状態でモスポートに到着します。しかしニルソンはモスポートではアンドレッティ同様に好調で、タイムはアンドレッティから1.6秒遅れたものの、フロントローを占めたアンドレッティとハント、そして前戦でニアミスからひと悶着を起こしたティレルのロニー・ピーターソンに次ぐ4位のグリッドを獲得しました。しかしレースでは不運に見舞われ、スタートでこそピーターソンをパスして3位に順位を上げたものの、間もなくマスとティレルのパトリック・デパイエにパスされて5位に後退します。そして18周目にニルソンのJPS18はスロットルケーブルがスタック、マシンのフロントからクラッシュしてリタイアとなり、イギリスGPでの3位表彰台以来完全に運に見放されたニルソンは、これで6戦連続のリタイアとなりました。
カナダGPの後、アンドレッティとニルソンは再びアメリカへ戻り、10月15・16日にカリフォルニア州リバーサイド・レースウェイで行われたIROC(Internationl Race of Champions)第2・3戦に、ジャッキー・イクスと共にF1代表として参戦しました(第1戦は9月17日にミシガン・スピードウェイで開催)。アル・アンサー、リチャード・ぺティ、ジョニー・ラザフォード等のNASCAR、IMSA、USAC(後のインディーカーシリーズ)を代表するアメリカン・レーシングの強者達とシボレー・カマロのワンメイクで戦うこのシリーズでアンドレッティは7位-4位-2位、ニルソンは5位-6位-6位という結果を残し、翌週の日本GPへと向かいました。またニルソンは翌1978年シャドウから分裂したアロウズのエースドライバーに就く事が明らかになりましたが、同時にこの頃から彼の身体を蝕んでいた癌が次第に症状を現し始めていました。しかしそれがやがて自身の生命を奪うまでに至るとは、この時ニルソン自身は想像していませんでした。
<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチのデザイン変更
・リアウィングに追加フラップ装備
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
<改訂履歴>
・v1.0(2012/05/03) 新規作成
ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。
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