Lotus78 History & Markings – Vol.33 Ronnie Peterson Tribute


本特集も本編として遂に最終回となる今回は、運命の1978年第14戦イタリアGP(9月10日決勝)におけるロータス78について取り上げる事になります。前戦のオランダGPでチーム・ロータスはマリオ・アンドレッティとロニー・ピーターソンのコンビで今季8勝目、そして4回目の1-2フィニッシュを決め、3戦を残して7回目のコンストラクターズ・タイトルを獲得しました。そしてドライバーズ・タイトルの可能性も、ここまで6勝/63ポイントのアンドレッティと2勝/51ポイントのピーターソンの二人に絞られ、このレースでアンドレッティがピーターソンに対して6ポイント以上の差を付ければ、アンドレッティはタイトルを獲得出来るという状況の中、イタリアGPは開幕しました。しかしその結末は数々の不運と不手際が重なった結果、チーム・ロータスと2人のドライバーにとって余りにも残酷で、そして悲しい結末を迎える事になります。そして本来既にロータス79にその役割を譲った筈のロータス78は、このレースで予期せぬ形で再登場し、そしてその悲劇の主役となりました。
今回はチーム・ロータスでのロータス78と、そしてピーターソンにとっても最後のレースとなったこの日の、そしてその後の出来事を、ピーターソンのJPS17と共に公式ウェブサイト「Ronnie Peterson – Superswede」に克明に記されている記事の引用と、当時の映像を交えて検証したいと思います。

写真:1978年イタリアGP、レース前のスターティンググリッドに着いたロニー・ピーターソンのJPS17。メカニックの影になってその姿は見えないものの、ピーターソンは既にコクピットに収まり、レースのスタートを待っている。午前中のウォームアップでJPS20のブレーキトラブルによりクラッシュしたピーターソンは、スペアカーのJPS17でレースに臨む事になり、そしてそのスタートで発生した多重クラッシュに巻き込まれる事になる。(ZDF


【FILE 97. 1978 Rd.14 ITALIAN GP – Sep.8 – 10 1978】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Ronnie Peterson


参考資料:
・AutoSport 1978年11月15日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
この週末にピーターソンが使用したJPS17。基本的にはFILE.96で紹介したオーストリアGPにおけるJPS16と同じ仕様で、モノコックに移動したJohn Player Specialのロゴ、オリンパスのロゴが描かれたサイドウィング他、スペインGP以後のスペアカー仕様を踏襲したものになっており、インダクションボックスのValvolineロゴ上に「MOTOR OIL」の文字、そしてフロントノーズのオイルクーラーのエアインテークにはフィンも装備されています。最大の特徴はリアウィングで、ウィング本体は超高速コースであるモンツァに合わせた低ダウンフォース仕様、そしてウィニング・ローレルは前回紹介したオーストリアGP仕様から、そのオーストリアGPでのピーターソンの優勝とオランダGPでの1-2フィニッシュを反映して実に12個へと増え、そしてオランダGPで決定したコンストラクターズ・タイトルを示す「World Champion 1978」の文字がJPSロゴの下半分を囲む様にレイアウトされています。ピーターソンは決勝ではニコルソン-マクラーレン・チューンのDFVを使用しており、そのロゴはカムカバーの後上方に記入されています。


<< 最後のスタート >>

チーム・ロータスのボスであるコーリン・チャップマンがピーターソンに対し、翌1979年のシートをアンドレッティとのジョイントNo.1体制でオファーしたとの噂が流れる中、しかしピーターソンはこのイタリアGPの直前、翌1979年にはマクラーレンへ移籍する事をチャップマンとアンドレッティに告げていました。それでも3人の関係はこれまでのシーズン中と変わらず、金曜の夕方はイタリアのロールスロイス輸入ディーラーが貸与した車でアンドレッティとピーターソンはサーキットから約50km離れたコモ湖畔にある宿泊先の高級ホテル、ヴィラ・ドエステまでレースを楽しみました。アンドレッティは一人で1台に、そしてもう一台にはピーターソンとチャップマン、そしてピーターソンのマネージャーを務めるスタファン・スヴェンビーが乗り、2台のロールスロイスは反対車線を突っ切って車列を追い越し、赤信号を無視し、田園風景を猛スピードで駆け抜けました。レースはアンドレッティが勝ちましたが、その理由はピーターソンの走りに恐れをなし、耐えられなくなったチャップマンがピーターソンにスローダウンする様に懇願した為でした。

写真:1978年シーズン序盤、TVのインタビューにジョークで答えるアンドレッティとピーターソン。1978年シーズン、2人の居る所には常に笑いが有り、このモンツァでもそれは変わらなかったが、それでもタイトルを争う緊張感から互いに会話と笑顔が消え始めていた、とアンドレッティはモンツァの週末を回想している。(Sky Sports

しかし離脱宣言が影響したのか、このモンツァにおけるピーターソンは金曜日から数々の不運に見舞われます。まず金曜日には走り出して僅か数周でレースカーのJPS20に搭載されたニコルソンDFVがブロー、午後はスペアカーのJPS17で走行する事になります。しかし翌日再びJPS20で走れる事を期待したピーターソンは、午前中既にアンドレッティに次ぐ2番手のタイムを記録していた事もあり、控えめの走行で終えます。そして土曜日には再度JPS20で走り出すものの、今度はクラッチ液がリアブレーキに入り込んだ事が原因でブレーキが不調になってタイムを更新する事が出来ず、フェラーリのジル・ヴィルヌーヴ、ルノーのジャン-ピエール・ジャブイーユ、ブラバムのニキ・ラウダに抜かれて5番手スタートに終わりました。悪い事に目の前の3番手にスタートの加速が極端に悪いルノー・ターボが座る事になった為、ピーターソンは不機嫌でした。しかし不運はそれだけでは終わらず、日曜朝のウォームアップではJPS20はブレーキが不調になり第2シケインのロッジアで約150km/hの速度でクラッシュして大破し、ピーターソンは脚に怪我を負ってしまいます。

写真:恐らく土曜日のセッション終了後、ピットにてこの日の不調の元凶となったJPS20のリアブレーキを覗き込むピーターソン。マシンの不調でタイムを伸ばせなかったピーターソンの表情は冴えなかった。(Pole Position 2


このクラッシュを受けてスヴェンビーはチャップマンに対し、ピーターソンがアンドレッティのスペアカーであるJPS19でレース出来る様に嘆願したものの拒否された為(※)、ピーターソンはJPS17にニコルソンDFVを積み替え、レースに臨む事になりました。チーム・ロータスはこの時迄に4台のロータス79(JPS19~22)を製作していましたが、アンドレッティがオーストリアGPでJPS21を大破させてしまった為、このイタリアGPでも引き続きJPS17がピーターソンのスペアカーとなっていた事も、この後の悲劇の要因と広く考えられています。
※ロータス79の1号車であるJSP19はモノコックのレッグルームが狭く、長身のピーターソンには不向きだった為、アンドレッティ専用車として使われていました。JPS20以後はピーターソンの為にレッグルームが上方に拡張される設計変更がされています。

不運な週末ではラフなドライビングを展開して評判を落としてしまう事が多いピーターソンでしたが、今回は1973・74年(ロータス)、そして76年(マーチ)と過去3勝を挙げているモンツァでのレースを前にポジティブな態度を取り戻し、レース前TVのインタビューには「エキサイティングなレースを見せるよ。78でもトラブルが無ければ、表彰台に上がって見せるよ!」と笑顔でコメントを残し、懸念された脚の負傷にも特に治療を施す事も無くJPS17のコクピットに収まると、ピットクローズまでの時間でピットインを行ってリアウィングの調整を行い、そしてグリッドへと向かいました。

写真:ピットレーン最前方の位置でヘルメットを装着し、JPS17のコクピットに乗り込もうとするピーターソン。スペアカーというハンディはあるものの、得意とするモンツァでのレースを前に自信に満ちた様子でコクピットに乗り込み、ピーターソンはコースへと出て行った。(Motors TV


<< 事故発生 >>

レースのスタートは混乱したものとなりました。長年イタリアGPのスターターを務めているACIモンツァのジョバンニ・レステッリは、最前列を占めたアンドレッティとヴィルヌーヴの動きに気を取られており、両者がスタートライン上で停止した後、僅かに前に動いたのを見て反射的にグリーンライトを点灯させてしまうミスを犯します。この為まだ停止していない後方のマシンは、中位でおよそ80km/h、最後列ではおよそ120km/hのスピードからフル加速を開始、結果として広いモンツァのホームストレートに多くのマシンが横に広がった状態で、その後コース幅が急激に左へ狭まる第1シケインへ殺到する事になり、観ていた者の多くがこの後にアクシデントが発生する事を予感しました。

写真:レーススタート直後の状態。後方のマシンは明らかにスピードに乗っており、マシンの隊列はコース右側の白線外にまで数台のマシンが広がった状態で車間が急速に縮んで行く中、第1シケインへ殺到していく。(Sky Sports

ピーターソンはこの混乱の中で後れを取り(恐らく前方のジャブイーユのスタート位置を意識して距離を取っていた為と思われる)、予選6位~9位スタートだったウィリアムズのアラン・ジョーンズ、ブラバムのジョン・ワトソン、リジェのジャック・ラフィー、ウルフのジョディ・シェクターにパスされ、更に左側には11位スタートだったフェラーリのカルロス・ロイテマン、右側には10位スタートだったマクラーレンのジェームス・ハント、そして更にその右側のコース外から12位スタートだったアロウズのリカルド・パトレーゼとの4ワイドの状態で、シケイン手前の旧オーバルコースへの進路を遮るガードレールによりコース右側が急激に狭まる地点へと近付きます。そして4台の中で最もスピードが乗っていたパトレーゼが、ハントの前方に割り込む形で急激に左へ進路を変え、右側コース外から白線を越えて本コース内へ入ろうとしました。

写真:極めて危険な状況の中、各マシンがシケイン手前のコース右側が急激に狭まる地点に近付く。コース右側の白線外を利用してポジションを稼いだシェクターとパトレーゼが急激に左に進路変更を行い、集団の前に割り込もうとする。しかしその左側にはハント、ピーターソン、そして左端にはロイテマンがおり、パトレーゼに突然割り込まれたハントは行き場を失う(クリックすると各車のポジションが確認出来ます)(Sky Sports

写真:1981年にイタリアの新聞に掲載された事故直前の写真。パトレーゼは既にハントの前に出ているものの、マシンと白線の位置関係、そしてこの時およそ200km/h近くのスピードが出ていた事を考えれば、かなり急な進路変更だったと見られる。記事はハントの「パトレーゼが自分にぶつかって来たのが原因」との主張に対し、既にパトレーゼはハントの前に出ており、ハントの主張に疑義を投げかける内容と思われる。この年既に幾つかのアクシデントを起こし、「危険なドライバー」のレッテルを貼られていたパトレーゼはこの事故において格好のスケープゴートとなり、ドライバー達から次戦USGPイーストへの出走を禁じられ、そしてその後もピーターソンに対する殺人という全く謂れの無い罪により法廷の場で戦う苦難を強いられる。最終的にこの年パトレーゼの無罪が認められたものの、その後もハントは事ある毎に厳しくパトレーゼを非難し続けた。(AutoSport.com

ハントとパトレーゼの接触の有無は不明ですが、たまらず左へ動いたハントは直ぐ左に居たピーターソンのJPS17と接触、一瞬左に向きを変えて宙に浮きます。この衝撃でコントロールを失ったピーターソンは右へ大きく斜行、コースを狭めるガードレールにおよそ120km/hで真正面から激突、この衝撃でJPS17のレッグルームはほぼ完全に潰れただけでなく、燃料供給系統が破損して燃料が噴き出し爆発炎上、JPS17は更に360度スピンして大量の燃料と巨大な炎を周囲に振り撒き、コース中央でようやく止まりました。一方のハントはそのまま左へ斜行してロイテマンとクラッシュ、その周囲でもヴィットリオ・ブランビッラ(サーティース)、デレック・デリー(エンサイン)、ブレット・ランガー(マクラーレン)、クレイ・レガッツオーニとハンス-ヨアヒム・シュトウック(シャドウ)、パトリック・デパイエとディディエ・ピローニ(ティレル)、が次々にクラッシュし、コース上は大きな混乱に包まれました。

写真:第1シケイン側から見た事故直後の様子。かなり広範囲に燃料が拡散した事で周囲に巨大な炎が上がっており、右端にはハントとクラッシュしたロイテマンがエスケープロードを滑走しているのが見える。結局この事故は10台が巻き込まれ、ダメージを受けなかったのは前方に居た9台と、後方の僅か5台のみであった。(Pole Position 2

巨大な炎と黒煙に包まれたJPS17の中でピーターソンは必死に脱出を試みましたが、両脚を骨折していた為に下半身の自由が利かず、変形したコクピット開口部からピーターソンは上半身を乗り出したまま動けない状態でした。オフィシャルが必死に消火剤を吹き付ける中、ピーターソンの救助に真っ先に向かったのはデパイエで、脱出を阻んでいたステアリングを右足で蹴り壊して外し、直後にハントがその間に割って入り、ピーターソンの下半身をコクピット外へ引きずり出しました。そこへ自らも1973年南アフリカGPで炎に巻かれた経験を持つレガッツオーニが駆け付け、ハントと共にJPS17からピーターソンを引き離しました。

写真:激しい炎と黒煙の中、JPS17からピーターソンを救助しようとするハントとデパイエ。デパイエの右脚はステアリングを蹴り壊そうとしており、その左脇でハントがピーターソンの脚を引きずり出そうとしている。この後、右下端にいるレガッツオーニがハントと共にピーターソンを安全な場所まで運び出した。(Sky Sports

写真:事故現場に横たわるJPS17の残骸。モノコック前方が激しく潰れ、その衝撃の大きさが伺い知れる。1970年に同じモンツァでヨッヘン・リントが事故死した際、マシンの残骸が当局に押収された経験からチャップマンはレース後、JPS17を含む全てのマシンを大至急イタリア国外へ運び出す様に指示した。この事故によりJPS17は除籍となり、その残骸はチャップマンの子息クライブが2003年迄に完全に廃棄している。現在クラシック・チーム・ロータスが所有するJPS17と同じ78/3のシリアルを持つシャシーは、予備のパーツを集めて製作された全くの別物である。(Pole Position 2


<< 救急搬送 >>

周囲では事故現場の様子をカメラに収めようとする報道陣(その殆どは俗に「パパラッチ」と呼ばれるタブロイド誌のカメラマン)が殺到し、警官隊との揉み合いが至る所で発生していました。この為警官隊は警察犬を動員して現場周辺を封鎖、これがサーキットの救急体制の混乱を引き起こし、サーキットに7台配備されていた救急車の1台が現場に到着するのには17分もの時間を要しました。一方、このシーズン中盤からF1における医療体制の整備という任務に着任したF1-CA専属医師の神経外科医エリック・シドニー・ワトキンス教授はレーススタート時にコントロールタワー付近に居ましたが、事故現場に向かう途中に警官隊に阻まれて現場に到着出来ず、またサーティースのチームマネージャーであるピーター・ブリッグスはブランビッラの容態を確認する為に現場に駆け付けようとした所、制止に入った警官に後頭部を激しく殴られて負傷するという極めて理不尽な事態も発生していました。

写真:事故現場からパパラッチ共を駆逐しようと警棒を振りかざす警官隊。至る所で発生していたこの揉み合いがサーキットの救急体制に混乱を及ぼした。(Pole Position 2

救急車の到着を待つ間、コース上に身を横たえられたピーターソンをハント、レガッツオーニ、そして1976年西ドイツGPでラウダを救助したアルトゥーロ・メルツァリオ(メルツァリオ)がオフィシャルと共に付き添い、ヘルメットやレーシングスーツのファスナーを外すのを手伝いました。ハントはピーターソンの顔を見た時、その表情が恐怖に怯えていたのを感じ、見た目に明らかだった右脚の負傷がこれ以上の精神的動揺を与えない様に、ピーターソンに決して脚を見ない様にと忠告しました。

写真:コース上に横たえられたピーターソンの傍に立ち、ようやく現場に到着した医師に腕を振り上げて早く来る様に促すハント。その表情と仕草には明らかに苛立ちが見て取れる。(Pole Position 2

永遠にも思える長い時間が経過し、ようやく救急車が現場に到着しましたが、先ずはピーターソンと共にクラッシュした際に飛来物の直撃を頭部に受け、頭蓋骨骨折の重傷を負って意識不明となっていたブランビッラが担架に乗せられ、収容されました。一方ピーターソンには完全に意識が有り、医師やハントらドライバーの問いかけにも身振りを交えて応えていました。懸念されたのは両脚の複雑骨折、特に右脚は膝から下が内側に折れ曲がって両脚が4の字に組まれた状態になっていた他、両肩と左腕、そして左脚に火傷を負っていました。そして更に暫くしてピーターソンにもようやく担架が用意され、現場から100メートル程第1シケイン側にようやく到着した救急車へ収容され、メディカルセンターへ運ばれました。

写真:ピローニの問い掛けに応えるピーターソン。左腕から肩にかけてレーシングスーツ表面の黄色の布地が焼け焦げている。(Pole Position 2

写真:最初に到着した救急車には意識不明となっていたブランビッラが収容された。この時はブランビッラの容態の方が遥かに懸念される状態だった。(Pole Position 2

写真:ようやく到着した担架に乗せられたピーターソン。左側の警官の左後方に、白いレーシングスーツを着たアンドレッティの姿が見える。(Pole Position 2

写真:担架に乗せられ救急車へ運ばれるピーターソンを見送るアンドレッティ。その心中はどんな思いだったか。(Pole Position 2

余りにも粗末な救急体制にハントやレガッツオーニの怒りは最高潮に達していました。ハントはようやくピーターソンの元に医師が到着したのを見届けるとピットまで歩いて戻り、そこでワトキンスを見つけてピーターソンが負傷している事、そして救急車に乗せられてメディカルセンターに向かっている事を伝えました。ようやく状況を理解したワトキンスはメディカルセンターへと向かいました。しかしそのメディカルセンター周辺には既にパパラッチが大勢押し寄せており、担架に乗せられたピーターソンは彼らの被写体として晒される事になりました。更にメディカルセンターに到着し、診察に取り掛かろうとしたワトキンスをパパラッチが邪魔した事により、また新たな揉み合いが発生する有様でした。

写真:歩いてピットへ戻る途中、すれ違ったバーニー・エクレストン(右手前)に対して激しい口調と身振りで怒りをぶちまけ、立ち去るレガッツオーニ。数秒だったが険悪なやり取りが行われた。(Pole Position 2

写真:ピーターソンが担架で運ばれるのを見届け、チャップマンにピーターソンの様子を伝えるアンドレッティ。中央右はチーフメカニックのボブ・ダンス。(Pole Position 2


ようやくワトキンスを始めとする6人の医師団による診察を受ける事が出来たピーターソンは落ち着いており血圧も正常な状態で、はっきりとした口調で右脚の痛みをワトキンスに訴えました。そして医師団から両脚の当て木と点滴を施されたピーターソンはワトキンスになるべく早く病院に来てくれる様に頼み、ワトキンスはそれを約束しましたが、実際にはレースが再スタートする事になった為に現場に居なければなりませんでした。ワトキンスは同じくメディカルセンターへ駆けつけたエマーソン・フィッティパルディの専属医師ラファエル・グラザレス-ロブレスに、ピーターソンの付添として病院へ向かうヘリコプターに同乗してくれないかと頼みましたが、ロブレスもまた同じ理由で現場を離れる訳には行きませんでした。

やがてヘリコプターの離陸準備が整い、ピーターソンはブランビッラと同じくミラノのニグアルダ病院へと運ばれました。担架でヘリコプターに乗せられる際、ピーターソンは彼を取り囲んだ報道陣や周囲の誰にともなく、大きな声でこう叫びました。
「脚の怪我がどんな具合かって?物凄く痛いんだよ!」

サーキットからニグアルダ病院まで10分程のフライトの間、ピーターソンは付添として同乗した元F1ドライバーのロリス・ケッセル(1976・77年に6レース参戦、決勝出走3回)に対して右脚の痛みを訴え続けていました。病院に到着するとケッセルはピーターソンに、病院に着いたので落ち着けるだろうと伝えると、ピーターソンはOKと答えました。そしてピーターソンはその後直ぐにX線検査を受けました。彼の両脚の骨は数か所に及ぶ複雑骨折でバラバラになっており、これらを正しい位置に戻した上で、ピンで固定する手術が必要でした。

写真:ニグアルダ病院に到着し、担架で病院へ収容されるピーターソン。左肩から腕の先まで火傷を負っている。(Ronnie Peterson – Superswede

ピーターソンの妻、バーバラは普段のレースであればピーターソンと共にサーキットに同伴していましたが、この週末は2歳になる娘のニーナの体調が良くなかった為、モナコの自宅に居ました。しかしTVのライブ中継が無かった為、バーバラは事故を知りませんでした。事故から約1時間後、バーバラはチャップマンから連絡を受け、ミラノへ向かう支度を始めました。モナコの近くにあるニースの空港には彼女を迎えに飛ぶ事になったバーニー・エクレストンの個人機に対して深夜の利用許可が下りました。一方故郷スウェーデンのエレブルーに居たピーターソンの両親はTVで生中継を観ており、すぐさま状況を理解しました。両親にはスヴェンビーから連絡が有り、ピーターソンは生命には別条はなく、そして病院に向かっていると伝えられました。続いて両親にはバーバラからも連絡があり、彼女がミラノに向かう予定である事も伝えられました。

一方モンツァでは再スタートに向かうフォーメーションラップ中、シェクターがレズモコーナーでクラッシュし、破損したガードレールの修復が行われた為、更にスタートが遅れる事になりました。午後6時に予定されたレースの再々スタート前にサーキットには病院側から速報がもたらされ、ピーターソンの脚の血流が懸念される状況である事が伝えられました。そしてワトキンスは、病院の医師達はピーターソンの脚の骨を内部、外部のピンで固定する必要が有る事があると判断したと伝えました。


<< 決断、そして手術 >>

写真:現在のニグアルダ病院。1930年に創立された歴史ある病院で、現在病床数は1,200以上にも及び、各種最先端の医療設備を持つミラノ市内でも屈指の規模を持つ総合病院である。(WikiPedia

ヘリコプターで病院へ運ばれたピーターソンを追う様に車でニグアルダ病院へ向かっていたスヴェンビーは到着すると、直ぐにピーターソンと会いました。この後何が行われるのかというピーターソンの問いに、スヴェンビーは医師が今手術の準備をしている事、そして怪我は命に影響するものではない事を伝えると、ピーターソンはOKと答えました。しかし同時にスヴェンビーは病院の医師達から、今後の治療方針について難しい決断を求められていました。スヴェンビーはワトキンスに電話をし、更に3人のスウェーデン人医師、他のイタリア人医師、そしてピーターソン自身にも病院の医師から与えられた選択肢について相談をしていました。その内容は以下の通りでした。

  1. ニグアルダ病院に留まるか、それとも他の病院に転院するか。
    スイスやオーストリアの病院は、アルペンスキーの事故による脚の複雑骨折の手術経験が豊富である事から推奨されるが、イギリスや母国スウェーデンの病院という選択もある。
  2. 手術を急ぐか、それとも待つか。
    手術を急ぐと、最悪の場合血管塞栓の危険が有る。一方で手術を遅らせると、最悪の場合脚の切断が必要になる。

一方、モンツァでは当初の52周から40周に短縮されてレースがスタートしました。レースはスタートでトップに立ったヴィルヌーヴとアンドレッティの白熱したバトルとなり、残り5周でトップに立ったアンドレッティがトップでチェッカーを受けました。しかし今度はスタートシグナルの点灯が遅すぎた為、グリーンシグナルの前にクリーピングしてしまったアンドレッティとヴィルヌーヴは1分加算のペナルティが課され、アンドレッティは6位、ヴィルヌーヴは7位に降着となりました。ロータスとフェラーリはこの裁定に抗議しましたが、結局裁定は覆らずアンドレッティは1ポイントを加算し、残り2戦でピーターソンとのポイント差を13としました。しかしそんな事など最早何の意味もない事は、アンドレッティ自身を含めた誰もが感じていた事でした。ピーターソンの怪我の様子を見れば、3週間後の10月1日にワトキンス・グレンで行われる次戦USGPイーストにピーターソンが出場する事は不可能である事は明らかで、アンドレッティのタイトル獲得は既に決まったも同然でした。

写真:イタリアGPファイナルラップ(LAP40/40)、ヴィルヌーヴのフェラーリ312T3を従えてトップで最終パラボリカ・コーナーへ進入するアンドレッティのJPS22。この時既に2人には1分加算のペナルティの裁定が下されていたものの、曖昧な伝達が行われた事により、2人はそのまま表彰台に立つ事になった。最初から最後までオーガナイズの不備が目立ち、後味の悪さだけが残ったレースだった。(Motors TV

その頃、モンツァに来ていた同郷の親友であるレイネ・ウィセール(1970~74年にロータス、BRM等でF1参戦)もニグアルダ病院を訪れ、ピーターソンに面会していました。ピーターソンは痛み止めを打たれていた為に落ち着いた様子で、楽観的な気持ちを取り戻していました。ピーターソンはグラハム・ヒルが1969年アメリカGPでの両脚骨折の重傷から翌年復帰した事を引き合いに出して、ウィセールにこう言いました。

「ちょっと脚をやられちまったよ。でもこの病院がグラハム・ヒルの骨折を治せるんだったら俺の脚も治せる筈。来年にはきっと大丈夫さ。」

その後、スヴェンビーにはイタリアで最高の外科医とされるアーネスト・ゼルビ医師が手術にやって来るという情報がもたらされました。その事を伝えられたピーターソンは復帰への意欲を示し始めました。ウィセールはピーターソンと共にX線写真を眺め、そしてきっと脚は完治するとピーターソンを励ましました。ピーターソンの周囲には楽観的な空気が流れ始めていました。やがてピーターソンは眠りにつき、そしてスヴェンビーは最終的に、ピーターソンの早期回復を期してニグアルダ病院で足の骨を固定する手術を受けるという決断を病院側へ伝えました。スヴェンビーを最終的にこの決断へ動かしたのは、ピーターソンが最後にスヴェンビーへ託した早期復帰への強い意欲を示した言葉でした。

「ワトキンス・グレンのレースに出たいんだ。頼む!」

一方ワトキンス、アンドレッティとチャップマンはレース後、取材陣や群衆に囲まれてサーキットを出る事が出来ませんでした。ようやくの事でワトキンスはフィアット・パンダに、そしてアンドレッティとチャップマンはロールスロイスに乗ってサーキット周辺の交通渋滞をアンドレッティが知っていた近道を使って抜け出し、更に病院でも彼らを取り囲んだ報道陣や群衆をかき分けてようやく病院に到着したのは、既に手術が始まって2時間近く経過した夜10時近くでした。ワトキンスは病院に到着すると直ちに手術チームに加わりました。ゼルビも手術開始後しばらくの後に病院に到着し、最も複雑だった骨折箇所に施術を行いました。ピーターソンは血流も正常で脈にも異常は無く、手術は全て予定通りに進行しました。やがて主担当医が手術の終了を告げ、およそ2時間半に及ぶ手術が終了しました。
驚く事に、手術の様子は報道陣が自由に手術室の窓越しに見る事が出来る様になっていました。この為このエリアにはパパラッチ共が殺到し、病院の中は酷く混乱していました。ピーターソンと親しかったスウェーデンのジャーナリスト、フレデリック・ペテルセンスは著書の中で「床は煙草の吸殻で埋め尽くされ、とてもここが病院だとは信じられない状態だった。そしてその上では大勢のカメラマンが写真を撮ろうとしてひしめき合い、その様子はまさに悪夢だった。」と振り返っています。

写真:ピーターソンの手術の様子。この様子は手術室の窓越しに、報道陣だけでなくその場に居る誰もが見る事が出来る状態となっていた。(Ronnie Peterson – Superswede

手術後、ピーターソンは手術室からブランビッラも収容されている集中治療棟に移されました(ブランビッラは翌11日に意識を取り戻し、後にレース復帰を果たす)。移送の途中、スヴェンビー、アンドレッティ、チャップマンはワトキンスと共にピーターソンの様子を見る事が出来ました。ワトキンスはバーバラに電話を掛け、ピーターソンの手術は無事に終わった事、そして回復に向かうであろうという見通しを伝えました。翌朝にはバーバラが病院に到着出来る様にミラノから病院までのヘリコプターの手配もされ、そしてバーバラはニースの空港へと向かいました。

夜11時、ニグアルダ病院は会見を開き、ピーターソンの容態は安定していると発表しました。会見でゼルビはピーターソンの負傷を以下の通り説明しました。

  1. 右脚に8箇所の骨折
    ・足首に1箇所 – 交通事故やスキー等で良く起こるもの
    ・膝下に斜行骨折1箇所(脛にヒビ) – 手術はそれ程困難ではない
    ・右の大腿部に大きな損傷 – 固定する必要あり、但し比較的単純である
  2. 右足に4箇所の骨折
    ・最低4箇所の骨折が有り、損傷が大きい。踵が粉砕しており、骨はバラバラの状態
  3. 右アキレス腱断裂
  4. 左脚腓骨骨折
  5. 左腕から肩にかけての火傷

そして驚く事に、その後病院側は2~3カ月後にはピーターソンは歩ける様になるであろうとも付け加えました。

写真:会見で報道陣に対してX線写真を示しながらピーターソンの怪我と手術の内容について説明するニグアルダ病院の医師。この内容によりピーターソンの回復に対して楽観的な見方が流れた。(Ronnie Peterson – Superswede

しかし一部の医師は今後のピーターソンの容態について強い懸念を示していました。特に手術のタイミングが早過ぎたのではないかという指摘に対しては、ゼルビも秘かに懸念を示していました(ゼルビが病院に到着した時は、既に手術は始まっていた)。「ロニーが右脚の感覚を取り戻せるかどうか、確証は全くない。病院の医師らはこんなにも早く手術を始めるべきでは無かった。もし彼が私の個人医院に来ていたら、決してこの様にはしていなかった。」

しかしこの時点では、誰もこの後に発生する事態を予測していませんでした。深夜0時を過ぎ、アンドレッティとチャップマンは宿泊先であるコモ湖畔のヴィラ・ドエステへ戻る事にしました。スヴェンビーとワトキンスは病院近くのホテルに部屋を取り、それぞれニグアルダ病院を後にしました。


<< 暗転、そして悲報 >>

ピーターソンの容態は、深夜を過ぎてから急激に悪化に転じました。

午前4時を迎える少し前、宿泊先のホテルでスヴェンビーは病院からピーターソンの容態を伝える電話を受けました。スヴェンビーは隣部屋のワトキンスを起こし、直ぐにニグアルダ病院へと戻りました。病院の集中治療室に到着すると、二人は病院の外科医から説明を受けました。それによるとピーターソンは呼吸困難の状態にあり、呼吸器によって血液の循環と酸素レベルを何とか保っている状態でした。X線写真は彼の肺に、骨髄から脂肪球が血流に入り込んだ事による複数の塞栓が出来ていた事を示していました。更にこれが肝機能の低下、そして脳のダメージを引き起こしてピーターソンは危篤状態に陥っていました。ワトキンスはピーターソンの瞳孔を診た所、脂肪球が網膜の動脈を阻害しているのが確認出来、既に希望は殆ど無い状態でした。チャップマンとエクレストンに状況が伝えられ、二人が病院に到着した頃には、既にピーターソンの脳の活動は停止しており、終末の時が近づいていました。

そして1978年9月11日午前9時55分、ロニー・ピーターソンの死亡が宣告されました。

写真:ピーターソンの手術の翌朝、容態急変の知らせを受けてニグアルダ病院の集中治療棟へ入るフィッティパルディとエクレストン。この時既にピーターソンは脳死の状態にあった。(Sky Sports

写真:詰めかけた報道陣で混乱するニグアルダ病院の様子。大勢のカメラマンがカメラを持って、行き来する関係者を待ち構えている。(Sky Sports

スヴェンビーからピーターソンの容態を伝えられたフィッティパルディは夫人を連れて病院を訪れた際にピーターソンの死を知らされ、そして言いました。「信じられない。我々は何年もの間友人同士だった。彼がいなくなってしまったレースはもう元の物ではない。彼は素晴らしいレーサーで、掛け替えのない存在だった。」そしてフィッティパルディはスヴェンビーと共にバーバラを迎えに行き、彼女に悲報を伝えるという辛い役を引き受けてミラノの空港へ向かいました。空港で夫の死を告げられたバーバラは事実を受け止められず、病院へは行かずにそのままスウェーデンのエレブルーに居る両親の所へと向かいました。

ピーターソンの専属のメカニックとして共にチームを移籍しながら、長年に渡り常に行動を共にして来たエーケ・ストランドベルグは、レース後病院に駆け付けて以来ずっと病院に留まり、ピーターソンの回復を祈り続けていました。しかしその願いも空しく、そして憔悴し切ったストランドベルグは病院の外に出て周囲の風景に目を遣りましたが、自分の目の前に見えるミラノの街の日常すら受け容れられませんでした。「自分にとっては世界の全てが止まってしまったのに、なぜ目の前の世界は止まっていないのか、理解出来ない。」

写真:ピーターソンの死の知らせを受け、ニグアルダ病院にて途方に暮れる仲間達。左からウィセール、レンナルト・エリクソン(スウェーデンのジャーナリスト)、ストランドベルグ、スヴェンビー。(Ronnie Peterson – Superswede

アンドレッティがフィッティパルディからピーターソンの容態急変の連絡を受けて夫人と共に病院に到着した時には、病院はピーターソンの死の知らせで更に報道陣が溢れて混乱した状況でした。アンドレッティが車から出ようとした所、丁度その場にショックと混乱に疲れ果て、病院の外へ出て来たペテルセンスがやって来ました。ペテルセンスはアンドレッティにピーターソンの死を知らせ、そして報道陣が騒いで混乱が起こるだけなので車から出ずにここから離れた方が良いと告げました。ショックでしばらく呆然としていたアンドレッティは一言、「不幸な事だが、これもまたモーター・レーシングなのだ。」と自分に言い聞かせる様に言葉を残し、そのままピーターソンに別れを告げる事無くその場を後にしました。そして受け容れ難い現実から逃れようと、アンドレッティは追いすがる報道陣を振り切ってひたすら空港へ車を走らせ、アメリカへと帰って行きました。
この結果1978年のF1ワールドチャンピオンは、2レースを残してアンドレッティに決定しました。アンドレッティが渇望していたタイトル獲得の瞬間は、最高のライバルであり、チームメイトであり、そして親友であったピーターソンの死によってもたらされました。また、アンドレッティはアメリカ人としては1961年のフィル・ヒル(フェラーリ)以来2人目のワールドチャンピオンとなりましたが、奇しくもそのヒルもまた同じモンツァで、チームメイトであったヴォルフガング・フォン・トリップスが事故死した事によりタイトルを決めていました。

ピーターソンの遺体は病院近くの公園に位置する教会へ移され、イタリアの習慣に従い弔問客の訪問が行われました。世界を駆け巡った突然の悲報に、たちまち多くのファンや関係者が次々集まりました。ドライバーの中ではフィッティパルディ、ハント、シュトウック、パトリック・タンベイ等が訪れました。枕元に蝋燭が灯されたベッドで安らかに眠るピーターソンに、皆が思い思いに花を手向け、メッセージを添え、そして別れを告げました。教会の周りには数千人にもなる大きな人の輪が出来、その輪はいつまでも消える事はありませんでした。

写真:ピーターソンの弔問の様子。多くの人々が花束やメッセージを添えたカードを携えて訪れ、そして別れを惜しんだ。(Ronnie Peterson – Superswede

世界中のテレビ・ラジオや新聞でも人気ドライバーの突然の死が伝えられ、悲しみが世界中を駆け巡りました。チーム・ロータス始め多くのF1関係者は、それぞれの本拠地へ戻る途中の空港や車のラジオで悲報に触れました。特に母国スウェーデンでは英雄の死に誰もが打ちひしがれ、悲しみが国中を埋め尽くしました。ピーターソンの最初のマネージャーであったセベネリック・エリクソンは、こう振り返りました。「ロニーが死んだ日、スウェーデンは全てが止まった。産業は一日中何の仕事も出来ず、人々は彼の死についての話ばかりしていた。学校ではヒーローの死を聞いた子供達が一日中泣き通しだった。そして幾つかの学校は授業を取りやめ、子供達を家に帰した。」


<< 最後の別れ >>

写真:チャップマンの専用機によって母国スウェーデンのヨンショーピング空港へ到着したピーターソンの棺。この後およそ200kmの距離を車で移動し故郷エレブルーへの無言の帰還となった。(Ronnie Peterson – Superswede

ピーターソンの死から2日経った9月13日水曜日、ピーターソンの棺はバーバラ、スヴェンビー、ストランドベルグと共にJPSカラーとロゴをあしらったチャップマンの専用機によってミラノから母国スウェーデンへと飛び立ち、翌14日午前2時頃、葬儀が行われる故郷エレブルーの聖ニコライ教会に到着しました。そして葬儀当日の9月15日金曜日、教会には朝早くから数多くの花束が次々と届けられました。そして午後になり葬儀が始まる頃には、教会には参列者だけでなく、才能に恵まれ人々に愛されたレーシングドライバーに最後の別れを告げようとする人々が集まり、その数はおよそ6千人にもなりました。午後2時半になり、葬儀はインゲ・ブロムクビスト牧師により執り行われました。遺族の意向により、弔辞はスウェーデンモータースポーツ協会の会長であるベルティル・ルンドベルグとエレブルー町長のオベ・リンドベルグによる短い物のみに留められました。そしてピーターソンの棺は、共に歩み、共にレースを戦った仲間達 – ストランドベルグ、フィッティパルディ、ハント、シェクター、ラウダ、ワトソン – により、教会の外へと運ばれました。そしてその後を、癌との闘いを続けていたグンナー・ニルソンが寄り添うようにして歩いて来ました。そしてピーターソンの2歳年下の弟トミー、バーバラが続き、そしてチャップマンら列席者が次々と教会から出て来て、最後の別れの時を迎えようとしていました。

写真:1978年9月15日、ピーターソンの葬儀を終え、教会から棺を運ぶ仲間達。手前は左からシェクター、ラウダ、ワトソン、奥は前からストランドベルグ、フィッティパルディ、ハント。そしてその後に抗癌剤の副作用により頭髪が全て抜け落ちてしまったニルソンの姿が見える。ニルソンはこの1カ月後の1978年10月20日、癌との闘いの日々を終えてピーターソンの住む世界へと旅立った。(Ronnie Peterson – Superswede

列席者の数は、以下多くのレース関係者を含め、およそ500人に及びました。

【ピーターソンを走らせたチーム代表】

  • コーリン・チャップマン(ロータス:1973~76、78年)
  • アラン・リース(元マーチ:1970~72、76年)
  • ケン・ティレル(ティレル:1977年)
  • ヨッヘン・ニールパッシュ(BMW/ツーリングカーレース:1975~1978年)

【ライバルチーム代表】

  • フランク・ウィリアムズ(ウィリアムズ)
  • バーニー・エクレストン(ブラバム)
  • テディ・メイヤー(マクラーレン)
  • ウォルター・ウルフ(ウルフ)

【ドライバー仲間】

  • ニキ・ラウダ(1975・77・84年F1ワールドチャンピオン、マーチ時代の後輩)
  • エマーソン・フィッティパルディ(1972・74年F1ワールドチャンピオン、ロータス時代のチームメイト、親友)
  • ジェームス・ハント(1976年F1ワールドチャンピオン、モンツァでの事故時にピーターソンを救出)
  • ジョディ・シェクター(翌1979年F1ワールドチャンピオン)
  • ジョン・ワトソン(親友、後にバーバラと同居し、娘ニーナの父親代わりとなる)
  • パトリック・タンベイ(常にピーターソンを慕っていた)
  • グンナー・ニルソン(同郷の後輩であり親友、闘病生活中ピーターソンが常に励ましていた)
  • レイネ・ウィセール(F3時代からの同郷の親友)
  • ティム・シェンケン(F3時代からの親友、スポーツカーでのチームメイト、ピーターソンのイギリスの自宅も近所だった)
  • エイエ・エルグ(カート時代からの同郷の後輩・親友、1976年よりピーターソンのイギリスの自宅の一部をガールフレンドと共に間借りし、その後1981年に日本へ渡るまでバーバラとニーナを支えた)

【ピーターソンを支えたスタッフ】

  • エーケ・ストランドベルグ(長年に渡りピーターソンと行動を共にした専属メカニック)
  • ボビー・クラーク、レックス・ハート、ナイジェル・ベネット(ロータスでのピーターソン担当メカニック、エンジニア)
  • セベネリック・エリクソン、スタファン・スヴェンビー(マネージャー)

【ラリー界の友人】

  • ビヨルン・ワルデガルド(1978年WRCチャンピオン)
  • スティグ・ブロムクビスト(1984年WRCチャンピオン)

【その他】

  • ニーナ・リント(ヨッヘン・リント未亡人、娘ニーナは彼女の名前を戴いたもの)
  • マリアンヌ・ボニエ(ヨアヒム”ジョー”・ボニエ未亡人、ジョーは同郷でスポーツカーでのチームメイトだった)
  • 他多数



アンドレッティは翌16日にミシガン・スピードウェイで決勝が行われるUSACのレースにペンスキーから参戦する契約を果たす為、葬儀には出られませんでした。代わりに夫人との連名で花束が届けられました。

最後にピーターソンはエレブルーのアルンビー墓地に埋葬され、ブロムクビスト牧師、トミー、そして最後にバーバラが花を手向け、最後の別れを告げました。

写真:ピーターソンの棺に続いて教会から連れ添って出て来た弟トミー(左)、ブロムクビスト牧師(右)、そしてバーバラ。バーバラは9年後の1987年12月19日、12歳のニーナを残し自らの意志で夫の住む世界へと旅立ち、そして隣り合わせの墓に眠る事になった。
その後ニーナは養父だったワトソンの元を離れてスウェーデンへ渡り、エレブルーに住む祖父母に引き取られたが、その頃になって初めて父親が偉大なレーシングドライバーであった事を認識したという。


<< ロニー・ピーターソン、永遠なれ >>

ベングト・ロニー・ピーターソン。享年34。F1出走123戦(当時現役最多出走)、優勝10回、表彰台26回、ポールポジション14回、最速ラップ9回。しかしその数字が表すキャリアよりも、何よりそのドリフトを駆使した豪快なドライビング、そしてその走りとは対照的にマシンを降りればバーバラやニーナ、そして趣味である熱帯魚と共に過ごす時間を最上の喜びとする穏やかな人柄で知られ、人々に愛されていました。

ピーターソンは一方、ニルソンを始めとする同郷の後輩ドライバーに対するサポートには労を惜しまず、スウェーデンのフォーミュラ・レーシングの振興に力を尽くしました。ピーターソンの死が及ぼしたショックはスウェーデン国内で社会問題にまでなり、国内ではF1のスウェーデンGPを始めとする全ての自動車レースが一時禁止され、スポンサーもと殆どが撤退しました。しかしそれにも負けず、ピーターソンが育てたレーシング・スピリットは親友だったエイエ・エルグ、そしてアンデルス・オロフソン、ステファン・ヨハンソンへと受け継がれました。彼らはその後相次いで日本へと渡り、日本のレース界に多大な功績を残しました。ヨハンソンはその後F1で、何度も優勝の一歩手前まで迫りながら結局届きませんでしたが、1997年にル・マン24時間を制して世界の頂点に立ちました。当時ピーターソンの死に打ちひしがれた12歳の少年だったケニー・ブラックはF3000を経てアメリカに渡り、1998年IRLチャンピオン獲得、そして1999年にはインディ500で優勝し、アメリカン・レーシングの頂点に立つ活躍を見せました。そして現在エルグとブラックは共同で、マーカス・エリクソン等スウェーデンの新たな才能の発掘に取り組んでいます。

写真:2014年モナコGP、1974年同GPでのピーターソンの優勝から40年を記念し、ピーターソンと同じカラーリングのスペシャル・ヘルメットで出走したマーカス・エリクソンと共にカメラに収まるニーナ。エリクソンはピーターソンの親友であり、そして幼くして父親を失ったニーナの幼少期を間近で見守ってきたエイエ・エルグのマネジメントによりF1へと上り詰めた。その死から幾つの歳月が流れようとも、ピーターソンの名声と功績はF1の世界にて受け継がれ続けている。(F1 Fanatic


ピーターソンは生前、「Ronnie – the Racing Driver」を著したジャーナリストのルネ・メーツォンに対し、モーター・レーシングのリスクと死について、この様に語っています。

「もし自分が恐怖を感じるのであれば、レースは始めなかっただろう。レースとは危険なものであり、それは誰もが知っている事だ。常にリスクが付きまとい、レースをする者は誰もがそれを解っている。遅かれ早かれ、誰もがコースを飛び出してバリアやセーフティーネットに衝突する経験をする。でもその時自分は運を天に任せたり、自分は死ぬのではないかと考えたりはしない。死はそれとは関係なく来るべき時にやって来る。結局は(バリアやセーフティーネットが)自分を地上に留めてくれるだけの事なのだから。」

既に記した通り、確かにピーターソンの死は、幾つもの不運と不手際が重なったものでした。特にこの時ピーターソンが、ロータス78ではなく79に乗っていたなら、ピーターソンの両脚は79のノーズ先端まで伸びたモノコックでかなりの部分が護られ、かつモノコック両サイドに張り出した燃料タンクを持つ78ではなく、79であればドライバー後方に1箇所でまとめられた燃料タンクが爆発炎上を防いでいた、よってピーターソンは死なずに済んだ筈だという意見を多くの人が持っています。また炎上事故から生還しているラウダが後に発言した通り、この事故がイタリアではなくドイツで起こっていたら、より進んだ救急体制と医療技術により、ピーターソンの命は助かった筈だとの意見にも、多くの人が同調しています。しかし先のピーターソンの発言が彼の信念であれば、この1978年イタリアGPは、ピーターソンの「来るべき時」だったという事なのでしょう。勿論今回の事故はあってはならない不手際が引き起こしたのは事実で、レースをする者、レースを愛する者であれば、誰もドライバーの死を望んだりはしません。しかし仮にもしピーターソンがこの運命から逃れる事が出来たとして、その後どうなっていたか – 我々は翌1979年に醜悪で遅いマクラーレンM28に苦しむピーターソンの姿を見る事になったでしょう。確かにピーターソンの死は悲しい出来事でしたが、しかしその「来るべき時」が彼のキャリアの頂点であった事は、せめてもの救いだった様に感じられます。

写真:イタリアGP決勝日、朝のウォームアップセッションでコースインするピーターソンのJPS20。この日ピーターソンがJPS20でレースをスタートしていたなら、仮に同じ事故が起こったとしても彼の命は助かったであろうとする意見は少なくない。(Pole Position 2

個人的にピーターソンのレースシーンで最も印象的な場面は、運命のイタリアGPの前戦である1978年オランダGPでの事でした。レースはスタートからアンドレッティとピーターソンのフォーメーションで1-2走行を重ねますが、レース中盤以降アンドレッティのJPS22はエキゾースト割れからリアのブレーキが過熱し、苦しい走行を強いられていました。ピーターソンは終始アンドレッティの背後で走行を重ねますが、後方から3位を走るラウダが迫って来ていました。しかし2人はそのままラウダの追撃を振り切ってシーズン4回目の1-2フィニッシュを決めました。このレースについて多くの人が、ピーターソンは何時でもアンドレッティを抜けた筈だったものの、アンドレッティを優先させるチームオーダーに従って2位に甘んじた、と見ています。しかしレースをフィニッシュした時、ピーターソンはまるで自分が優勝したかの様に大きく右腕を上げてガッツポーズを取り、そして表彰台でもまた自分が優勝者であるかの様に白い歯を見せて笑顔で勢い良くシャンパンを振り撒きました。もしピーターソンが単にアンドレッティを先行させる為に2位に甘んじたのであれば、それはピーターソンにとって悔しいレースとなった筈です。しかしレース後ピーターソンはロータスのモーターホームでスウェーデン人のジャーナリストを集めてインタビューに応じた際、アンドレッティのトラブルは後方から見ていて判ったものの、ピーターソンのJPS20もまたブレーキトラブルを抱えていた為、アンドレッティを抜くのは無理だったと打ち明けました。つまりこのレースでのピーターソンの喜びは、トラブルを克服して最後まで走り切り、そしてチームが1-2を決めたという満足感 – そしてそれはピーターソンにとって優勝に等しい大きなもの – から来たものだと思います。ピーターソンはレースの結果もさることながら、駆け引きや政治的な争いとは無縁で、純粋にレーシングカーをドライブする喜びに生きたドライバーでした。

写真:1978年オランダGPでの表彰台。2位のピーターソン(左)はウィナーのアンドレッティ(中央)を待ち切れず、満面の笑みで勢いよくシャンパン・ボトルを高々と振り上げた。この年4回目を数えたチーム・ロータスの1-2フィニッシュは、また同時にチーム史上最後の1-2フィニッシュでもあった。(Sky Sports

Ketteringham Factoryを立ち上げて以来、当時からF1を知る多くの人々と交流を持つ機会に恵まれました。そしてその誰もが最も好きなドライバーとして挙げるのがピーターソンでした。ピーターソンの事を語る時、誰もが目を輝かせ、そして時間を忘れてその走りがどんなに凄かったかを熱く語り合う – その時我々の居る空間は1970年代のサーキットへとタイムスリップし、目の前でJPSカラーを纏ったロータスが、フロントタイヤを見事に進行方向とは逆に向けて横っ飛びにコーナーへ飛び込み、そして青地のヘルメットに黄色のヒサシが流れ星の様に目に眩しく映る – その時最早言葉は必要無く、誰もが心の中こう思うのです。

「ピーターソンは、誰よりも速いドライバーだった。」

- ロニー・ピーターソン、永遠なれ -


<< 書籍のご紹介 >>

最後に、本稿を執筆するに当たり参考とさせて頂きましたロニー・ピーターソン公式ウェブサイト「Ronnie Peterson – Superswede」を運営するスウェーデンPOLETEXT社刊、「Memories of Ronnie Peterson: Friends, Associates and Fans Remember Racing Legend Ronnie Peterson」を紹介させて頂きます。全編英語ですが、ピーターソンの娘ニーナからのメッセージに始まり、多くのプライベートショットと共にピーターソンの幼少期を知る弟トミーを始め、本稿で紹介したフィッティパルディ、アンドレッティ、ウィセール等F1ドライバー仲間、そして親友のエルグ、ストランドベルグ、スヴェンビー、ペテルセンス等、ピーターソンを良く知る人々総勢47人が語るピーターソンの思い出を綴ったインタビュー集で、映像や記録では知る事の出来ないピーターソンの素顔やエピソードを知る事が出来る貴重な一冊です。巻末のピーターソンのカート時代からの全レースリザルト集は資料的価値も高く、ピーターソンをより深く知りたい方にお勧めです。

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