今回はアメリカ、ニューヨーク州郊外のワトキンス・グレンで行われた1977年第15戦USGPイースト(10月2日決勝)でのロータス78について取り上げます。ワトキンス・グレンでは1961年からF1をアメリカGPとして開催して来ましたが、1976年よりカリフォルニア州ロングビーチでもF1が開催される様になり、ワトキンス・グレンではUSGPイースト、ロングビーチではUSGPウエストという名称が用いられました。ストリートコースのロングビーチとは対照的に、このワトキンス・グレンは郊外の丘陵地帯に設けられており、起伏が激しく、また長いストレートや高速コーナーを多く配したレイアウトとなっていました。1980年を最後にF1のレースは行われなくなりましたが、現在でもほぼ同じレイアウトを保ったまま、インディやNASCARのレースが開催されています。1977年のロングビーチを制し、アメリカ人ドライバーとして初の母国優勝を達成したマリオ・アンドレッティにとっては、1968年にロータス49でデビュー戦ポールポジションという快挙(※)を達成した地でもあるワトキンス・グレンでも是非優勝をと意気込んでおり、アメリカの観客もまたアンドレッティの優勝への期待を胸にサーキットに集結しました。
※アンドレッティはその前の1968年イタリアGPで予選に出走しており(予選終了後にアメリカに戻ってレースに参戦した為、レース後24時間以内に複数レースへの出走を禁じたルールにより、決勝への出走を認められず)、アメリカGPは記録上デビュー戦ポールポジションですが、実質的には2度目のF1参戦となります。
写真:1977年USGPイースト決勝(LAP59/59)、ファイナルラップでジェームス・ハントのマクラーレンM26を猛追するマリオ・アンドレッティのJPS17。路面がウェットからドライに変化する中、タイヤが苦しくなったハントを必死に追い上げたアンドレッティだったが僅かに及ばず、シーズン2度目の母国アメリカでの優勝は成らなかった。(ZDF)
【FILE 62. 1977 Rd.15 U.S.GP EAST – September.30-October.2.1977】 v1.0
JPS17(78/3) Driver: Mario Andretti
参考資料:
・AutoSport 1977年12月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
最初に紹介するのは、マリオ・アンドレッティのレースカーJPS17。前回イタリアGPの優勝を受けて、リアウィングのウィニング・ローレルが一つ増えて5つとなりました。またコーナーが多くアップダウンの激しいワトキンス・グレンに対応して、リアウィングにフラップが追加されていますが、しかしシーズン中盤までに用いられた大型のものではなく、丁度ガーニーフラップと言える程度の小さな物となっています。マーキング面では、イタリアGPでは消えていたモノコック右側のキルスイッチ現示位置のステッカーが復活していますが、オランダGP時よりもやや上方に貼付されているのが特徴です。アンドレッティはのJPS17は好調だったイタリアGPの時から一転、このワトキンス・グレンでは地元ファンの期待に反してセットアップに苦しみます。コスワースのスペシャルDFVは今回も好調だったにもかかわらずストレートスピードが伸びず、予選では期待外れの4番手に終わります。雨に見舞われた決勝では予選2位から飛び出したブラバムのハンス-ヨアヒム・シュトゥック、ポールポジションだったマクラーレンのジェームス・ハントに続く3番手に着けましたが、アンドレッティはリアタイヤのバランスが悪く苦しい走行を強いられ、トップ2台のバトルから引き離されて行きます。そして15周目にシュトゥックがギアボックスのトラブルからスピン、クラッシュして脱落するとハントは独走態勢に入りましたが、レース終盤に雨が上がって路面が乾き始め、残り10周を切った頃からハントのペースは急激に落ち始めます。これを受けて逆にアンドレッティはペースを上げ、地元ファンの声援を受けて一時20秒程度あった差を1周1.5~2秒程度速いペースで瞬く間に詰めて行きます。しかし結局僅かに及ばず、ハントがアンドレッティを約2秒の差で振り切って優勝、アンドレッティは母国GPを悔しい2位で終える事になりました。そしてこのレースでも堅実に4位で走り切ったフェラーリのニキ・ラウダが、シーズン2戦を残して自身2度目のタイトルを獲得しました。
<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー5は、カギ部分の根元が斜めにカットされた形状
・フロントウィング翼端板は半月形タイプ
・右側キルスイッチのデザイン変更
・リアウィングにガーニーフラップ装備
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
<改訂履歴>
・v1.0(2012/04/22) 新規作成
【FILE 63. 1977 Rd.15 U.S.GP EAST – September.30-October.2.1977】 v1.0
JPS18(78/4) Driver: Gunnar Nilsson
参考資料:
・AutoSport 1977年12月1日号
・外部リンク >> 「A BOOKSHELF」
このレースからグンナー・ニルソンのレースカーはJPS18に変更され、開幕戦アルゼンチンGPより使用されてきたJPS16は、ドイツGPでエンジンマウントにクラックが入る等の疲労が蓄積されて来た事から、このレースよりスペアカーに回る事になりました。外見上の特徴として、アンドレッティのJPS17ではガーニーフラップ状だったリアウィングの追加フラップは、John Player Specialの文字の上部1/5程度の面積を持った、やや大きな物となっています。また、ウィニング・ローレルはJPS17同様に一つ増えて5個になっています。ニルソンはこのワトキンス・グレンでも調子は今一つで、プラクティスで大きな問題は無かったものの、アンドレッティから約1秒遅れで予選12位という結果に終わりました。レースがスタートすると、サーティースのヴィットリオ・ブランビッラとティレルのパトリック・デパイエをパスして10位にポジションを上げます。その後シャドウのアラン・ジョーンズやエンサインのクレイ・レガツォーニにパスされるものの、そのジョーンズやブラバムのジョン・ワトソンとシュトゥック、リジェのジャック・ラフィーらの脱落や後退等もあり、7位を走るティレルのロニー・ピーターソンのテールに迫ります。一方ピーターソンはこのレースでかなりラフなドライビングを展開しており、序盤にして既にジョーンズのクラッシュやラフィーの後退という被害を引き起こしていました。ニルソンは17周目にコース後半のシュートコーナーでピーターソンのインに並びかけ、次のヒールコーナーでアウトからオーバーテイクを掛けようとしましたが、ピーターソンはニルソンに対してアウト側へ幅寄せした為、マシンの左半分を雨に濡れたグリーンに落としたニルソンはスピン、そのままガードレールにクラッシュしてリタイアとなりました。普段は同郷の先輩であり、面倒を見てくれていたピーターソンと常に良好な関係を持っていたニルソンでしたが、この時ばかりはピーターソンに対して怒りを露わにしてレース後に強く抗議しましたが、何とかその場で事態は収拾、最後には和解してサーキットを後にしました。
この週末の直前、そのピーターソンのマネージャーであるスタファン・スヴェンビーは、パーソナルスポンサーを引き連れてチーム・ロータスのボスであるコーリン・チャップマンとミーティングを持ち、ピーターソンのチーム復帰は決定的な状況となっていました。エースとしての待遇を約束されていたとは言え、アンドレッティはチームメイトとして理想的・献身的な弟子だったニルソンの代わりに、天性の速さを持ち自分を脅かす存在となり得るピーターソンが加入する事態を歓迎しておらず、「プリマ・ドンナは一人しか要らない」と不快感を示していました。この時アンドレッティは翌年ピーターソンと共にF1史上に残る最強チームを形成する事になるとは予想していませんでいた。
<外観上の特徴>
・フロントノーズのカーナンバー6はカギ部分が折れ曲がっているタイプ
・フロントウィング翼端板は舟形タイプ
・右側キルスイッチのデザイン変更
・リアウィングに追加フラップ装備
・リアウィング上面にウイニング・ローレル記入(USGPウェスト、スペインGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP:計5個)
<改訂履歴>
・v1.0(2012/04/22) 新規作成
ご意見、別考証・別見解など歓迎します。コメント欄をご利用ください。
– END –
写真:1977年イタリアGP決勝(LAP15/52頃)、ウルフのジョディ・シェクターをパスしてトップに立ち、シーズン4勝目へ向けてアスカリ・シケインを走行するマリオ・アンドレッティのJPS17。イタリア領に生まれ、移民としてイタリア各地を転々とし、15歳の時にアメリカへ移り住んだアンドレッティにとって、ロングビーチでの優勝に続くもう一つの母国優勝となった。FILE.60で説明する通り、スペアカーのJPS18用と思われるフロントノーズを使用しており、カーナンバーの書体とフロントウィングの形状が通常タイプと異なっている。(British Racing Green)



写真:1977年オランダGP決勝(LAP6/75)、ホームストレート先のタルザン・コーナーでトップを走るジェームス・ハントのマクラーレンM26にアウトからオーバーテイクを仕掛けるマリオ・アンドレッティのJPS17。僅かなタイトルへの望みを賭けた両者の一歩も引かない攻防は、この数秒後に最悪の結末を迎え、二人の間に禍根を残す事になる。(



写真:1977年オーストリアGP決勝(LAP32/54)、地元レースで4位を走っていたニキ・ラウダのフェラーリ312T2をパスし、更に最終ヨッヘン・リント・カーブの入口で3位を走るジョディ・シェクターのウルフWR3のインに突撃するグンナー・ニルソンのJPS16(左)。リスキーな高速コーナー、しかも雨上がりでイン側の路面は濡れていて水溜りも残っている状況で、ドライタイヤで全く躊躇せず大胆に斬り込んだその姿に、ロータス78のコーナーにおけるアドバンテージと、この時ドライバーとして急成長中だったニルソンの絶対的な自信が伺える。(



写真:1977年西ドイツGP決勝(LAP34/47)、スタジアムセクション入口のアジップ・カーブでリタイアしたマリオ・アンドレッティとJPS17(手前)。左は22周目にリタイアしたパトリック・デパイエのティレルP34と31周目にリタイアしたグンナー・ニルソンのJPS18。原因は3台ともエンジン・トラブルで、このレースでは完走は24台中10台、内6台(9位完走扱いとなったティレルのロニー・ピーターソンを含む)がエンジン・トラブルと、改めてサーキットの過酷さを示す結果となった。(


